“映画”とは

自分にとって、“映画”とはなんだろうか。

映像ディレクター、ハヤシテツタロウ監督と、先日インスタライヴ配信で話した。ハヤシくんは、ライヴ映像やミュージックビデオのフィールドを主にしつつ、この春に初めての映画作品『Not famous man 流浪のうどん職人 ニューヨークへ行く』がめでたく劇場公開され、今回は、その再上映イベントの宣伝の一端に友人として関わった形。イベントと、映画の内容の話をしつつ、東京以外の地方で上映できないかなーとか、映画にまつわる雑談や、ハヤシくんが料理をしなすぎる話などなど… ハートの嵐が止まらない、後世に語り継がれるべき最高のおもしろトークを2時間ちょっと配信した。お付き合いいただいた皆さんありがとうね。

『Not famous man 流浪のうどん職人 ニューヨークへ行く』
▼公式サイト
https://notfamousman.com

8/18(金)中目黒TRYでの上映会
▼イベント詳細
https://eigadetunagu2023.wixsite.com/eigatoudon

ハヤシくんは、撮り手、作り手でもありつつ、観る方の映画好きでもある。
以前から「映画館で観れるものこそが“映画”」という考えに基づいて受容行動をとっていて、「公開中に見逃したものは、今後一生出会えないものとみなす」という鬼軍曹みたいなストイックさを己に課している。
「何が“映画”なのか」という哲学。僕からすると「えーーーっ!」って感じ。厳格だ。そしてその哲学は、当然のように自身の作品にもかかってくるわけで。今作『Not famous man〜』については、劇場公開のみ。今後、ソフト化も、配信サービスやYouTubeでの公開する予定もつもりも無い、と明言しているのである。(あくまでハヤシくんの現時点の考えで、今作についての話しなので、次回作以降は必ずしもその限りではないようだけれど。)

つまりは、「…まあどうせそのうちになんかしらで観れるようになるよねぇ」という現代人の映像コンテンツへのぼんやりした感覚ではキャッチしそびれてしまうスタンスの作品なのだ。
「敢えて限定的にすることで興味を惹く」という宣伝戦略ともとられるかもしれないけれど、ハヤシくんの場合はそうじゃない。ポリシーなのだ。だから、別段大声で発信していないのもあって、実はそこがあまり伝わってないんじゃないかなと、そんな話もした。


その翌日、こんなことを考えた。
もしも『Not famous man〜』がNetflixなどの配信サービスで観れるようになっていたとして、さらには、もしもハヤシくんという人を全く知らなかったなら、僕という人間はそれを選んで観ただろうか?...と。タイトルとサムネイル、さすがに、それだけじゃ最低限過ぎるので、「車上生活のうどん職人がアメリカでうどんを打つまでを追ったドキュメンタリーだよ」という情報までは辿り着いたとして。
正直、もしかしたらスルーしていた可能性は高い。というのも、そもそも僕はフィクションが好きで、「ドキュメンタリー映画を観る」というのは、少し特別な行動であり、動機が必要になる。その最もシンプルな取っ掛かりは、「自分に関係がありそうか」だと思った。「車上生活のうどん職人」は、僕には関係無さそうに感じてしまいそうそうだな、と、そんなファーストインプレッションを受けてしまうように想像する。

まあでも、ドキュメンタリーを観て、結果「まるっきり無関係だったな!」と感じたことは実は少ない気がする。そこに生身の人間、生身の世界が映されているのだから、自然なことなのかもしれない。
そして『Not famous man〜』も、いざフタを開けてみると、めちゃくちゃ関係がある作品だったのだ。ハヤシくんの言っていた、「何かに迷っている人に観てほしい」という言葉の意味も、よくわかる。パワーをもらえるっ!とか、外側からの押し付けがましい感じじゃなく、ジワリと内側から自分が元来持ってるパワーが湧いてくるような感じ。とても楽しく、行き当たりばったりなようで、どこかがバカに真面目で、素敵な映画だった。
「監督と友達だ」という取っ掛かりがあって良かったし、つくづく自分の趣味の狭い世界観を広げねばと思わされる。みんな、色々観ないとダメだぜ。

あと、僕は、映画館での鑑賞に向いてるのは、派手で迫力や臨場感を求められる映画、とばかり考えていた。だけど、逆もか!と配信中の会話で気付かされた。静的だったりリアル寄りの作品にこそ、映画館という鑑賞環境のおかげで伝わる繊細な情報をたっぷり含んでいる。なるほどー。
「じゃあやっぱり全ての映画は映画館で観るべきってことじゃね?」と、ハヤシくん。うむう…そうなのかもしれない。

いや、しかしだねハヤシくん。今後もたくさん話し合わなければなるまい。レンタルビデオやテレビのロードショーという切り口も、僕を映画好きに育ててくれた文化なのだ。ハヤシくんの大切にしたいことは同意しつつも、家で観る映画の味わいについても語りたいし、説得したい。繰り返し観て気付くこととか、時の洗礼を受けた作品の見え方の違いとかもあるしさ。家にひとりぽっちで観るホラーの特別な恐さとか。まあ、そんなことわかったうえで、敢えて定義しているのだろうし、キリが無いのだけれど。

でも何より、“劇場公開”という幸福な形に辿り着けなかった映画たちもこの世にはたくさんあるわけで。だからさ、色々観ないとダメだぜ。

さて、自分にとって、“映画”とはなんだろうか。
作り手側では無い分、ハヤシくんと比べれば非常に気軽なスタンスでいられる身なので、語る土俵は変わってしまうのだろう。それでも、うまくまとめる言葉が見つからない上に、年々拡張しているような気がする。ふと日常の中である場面を想起したり、人とのやりとりの中で彷彿とする作品があったり、そんなふうに世界の捉え方を補助してくれるのが僕にとって、映画のことが多い、かな。

「僕にとって“映画”とは、世界の捉え方を補助してくれるものです」
ーーーー小田晃生

どや。おっちゃんかっこええやろ。
しかしそれこそが、僕が厄介な空気にしてしまうので普段なるべく我慢している、“映画例え”だったりするのだけれど。

あと最近は、本を読むのではなく、オーディブルで聴いてるこの状態、「これ実は自分の心の中で独自に画を浮かべて上映してる映画みたいだな」と、感じていたりする。それはまた、別の話。

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