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かなしみは自然にあらずー窪田空穂ー


こんにちは!齋藤です。
久しぶりにnote更新です。今回は、ちょうど一年前に書いた窪田空穂についての小文を転載します。
いろいろあるけど、生きなくてはね。

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 あなたの飼っている牝犬が、ある時子犬をたくさん産んだとする。親となったその犬は「わたしの赤ちゃんたちを見て」と言わんばかりにあなたの服の裾を咥えて、子犬たちのところにあなたを引っ張って行く。本当にかわいいね、よく産んだね。そう声をかけて撫でてやったが、しばらくして子犬のうちの一匹が死んでしまった。こんな時、私たち人間ならば大いに悲しむところだろう。ところが、犬は死んでしまった我が子を見ようともしない。まるではじめからそんな子犬はいなかったかのように、嬉しそうに、一生懸命生き残った子犬たちの世話をしている――。さて、あなたならこの犬のことを、どのように歌にするだろう。
 「やっぱり犬は人間とは違うんだなあ、自分の子どもの死がわからないなんて哀れだなあ」と詠うだろうか。それとも、「いいや、私にはわからないだけで、この犬も本当は哀しんでいるに違いない」と無理矢理自分に言い聞かせるように詠うだろうか。あるいは、「犬だって人間だって結局は薄情なものだ、世の中ひどい話ばかりだ」というように厭世的に詠うだろうか。
 歌集『鏡葉』に収められている長歌「天性」で、窪田空穂は次のように詠っている。

我が犬よ汝(な)は賢しと、今にして我が思ひ知る、よろこびは性にはあれど、かなしみは自然にあらず、よろこびは自然にあれど、かなしみは性にそむけり、その性を遂ぐる知りたる、我が犬ぞまさりたりける、人間われに。

窪田空穂『鏡葉』

 「我が犬」を非難するのではなく、哀れむのでもなく、「おまえは賢い」と呼びかけている。「よろこびは性にはあれど、かなしみは自然にあらず」とは、なんと大きな、そして力強い気づきだろう。生きていれば、人間であれ動物であれ、たくさんの理不尽な「かなしみ」を避けることはできない。しかし、何があろうとも前を向いて生きること。「よろこび」を見失わないこと。それが生きとし生けるものの「天性」なのだ。「我が犬」に託して、そう空穂は詠う。

 歌人として、国文学者として、教育者として。窪田空穂がその生涯に残した仕事は膨大だ。その膨大な仕事の根底に常に変わらずにあったのは、「生に対する全面的な肯定」である。その人生には、最愛の妻の早すぎる死があった。関東大震災では、変わり果てた東京を歩き、被災した人々の凄惨な姿を克明に歌に残している。第二次世界大戦では、次男茂二郎がシベリアに抑留され、日本に帰ることなく死去した。その茂二郎を詠った長歌「捕虜の死」は、慟哭そのものである。八十九歳と10ヶ月でその生涯を閉じるまで、空穂の歩んできた道のりは決して「よろこび」に満ちたものではなかったのだ。数限りない「かなしみ」に涙しながら、それでもなお「生きること」を肯定し続けた。それが、窪田空穂という歌人なのである。

最終の息する時まで生きむかな生きたしと人は思ふべきなり

窪田空穂『清明の節』

 「かなしみ」ばかりのこんな時代だから、いや、こんな時代だからこそ、である。私たちも自らの「生」を、そして生きとし生けるものすべての命を、もっと肯定していいはずだ。
 「よろこび」こそが、私たちの「天性」なのだから。

KADOKAWA「短歌」2022年3月号
       連載エッセイ「歌人解剖 ○○がスゴい! 第2回」より転載     

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