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15年前、関ヶ原に行った

ボンチノタミ、ジョーカーです。

今日は何の日?
アイドルマスターシリーズでお馴染み、秋月涼さんのお誕生日。おめでとうございます!
と、いうのももちろんですが。
9月15日といえば「関ヶ原の戦い」ですね。
旧暦とずれているので厳密には違うわけですが、まぁ、今日ということで。
今日は15年前に関ヶ原古戦場に行った話をします。当時の写真や感想も振り返りつつ。

そもそも関ヶ原の戦いってなんだ? という方のために簡単な説明をします。


天下分け目の関ヶ原とは?

ときは1600年。
豊臣秀吉の死後、豊臣政権の内部で起こった政争に端を発したもので、ざっくり言うと徳川家康率いる東軍石田三成率いる西軍(総大将は毛利輝元)がぶつかった戦いのことです。
結果は東軍が勝ちます。そして、徳川家康によって江戸幕府が開かれ、日本は江戸時代へと進んでいきます。

現在の関ヶ原の戦い

毎年Twitterで石田三成さんが「今年こそ西軍が勝つ」と意気込んでいます。

頑張れ石田治部少輔三成。20万人以上のフォロワーがあなたを支えている。

関ヶ原ってどこ?

岐阜県不破郡関ケ原町、というのが現在の地名です。JR東海道本線「関ケ原駅」があります。当時の岐阜県は美濃国と呼ばれていました。

わたしと関ヶ原

わたしは学生の頃、何度か青春18きっぷで旅行したことがあるのですが、そのときに岐阜県の関ケ原にも行きました。
今から15年前、2007年の春のことです。

本来は養老に用事があって大垣に宿泊していたのですが、せっかくだからあの天下分け目の決戦があった古戦場を見てみたいな、という思いつきで関ケ原まで足を運んだのがきっかけです。
当時も日本史は好きでしたが、今ほどではありませんでした。このとき古戦場に行き浪漫を感じてしまったことで、わたしはさらに日本史が好きになったのだと自覚しています。

関ヶ原古戦場開戦地の石碑

当時の写真はガラケーと使い捨てカメラを使っていたので、残っているデータはみんな画質が粗いです。でも一応読めますね。開戦地って書いてある。

重いリュックを背負ってひとりで歩き回った覚えがあります。途中で携帯電話の充電が切れてその日の宿の予約ができなくなって、近くのガソリンスタンドに駆け込みました。あのとき充電させてくれたお店の方、ありがとうございました。駆け込みで受け入れてくれた宿の方にも感謝。

当時の感想が残っていたのでそのまま載せます。

4時間程歩き回った場所をつらつらと。

・関ヶ原決戦地
石田三成陣地であった笹尾山のすぐ麓あたりに碑がある。勢いづいた東軍が、西軍を追い詰めていき、一番激しい戦いがあった場所。

・石田三成陣跡(笹尾山)
馬防柵があって、「大一大万大吉」の旗がいっぱい立ってた。
小高い山の上からは、関ヶ原の戦場がとてもよく見渡せる。今は、石碑と観光用の図や音声ガイドが頂上にあった。

そのすぐ隣には、今は小学校があって、「いきいきなかよくたくましく」って書かれてた。
「大一大万大吉」を掲げた彼の陣地の隣にあって相応しいものかもしれないと感じた。

・島津義弘陣跡
神社の裏側にひっそりとある、薩摩の豪傑・島津の陣地跡。
退くことを武器とした「敵中突破」のことも書かれてた。

・開戦地 小西行長陣跡
関ヶ原の戦いが始まった、最初の発砲があった場所。(確かそんな感じ)

・西首塚
東首塚も勿論ある。
読んで字の如く、死者を弔う場所。

・本多忠勝陣跡
公民館みたいなとこと民家に挟まれて、ちょこん、と祠と石碑と旗がある。
ここに徳川四天王の一人、戦国最強とうたわれた本多忠勝がいたんだね……なんか想像つかない。

・徳川家康最初陣跡(桃配山)
GSの脇を登ったちょっとした丘みたいなとこにある。
陣場野(家康が攻めこんで最後に陣地とした場所)からはかなり離れていて、東軍の勢いを感じた。
この丘から真っ直ぐに石田本陣がはっきりと見えて、なんか興奮した。
まるで自分が三成と対峙してるような感じになる……すごいわ、本陣。

当時の日記より、若干修正あり

何の計画性もなく4時間歩き回っていたらしい。ちょっと遠いところは回れていませんね。大谷刑部の陣跡とか。
当時の写真も載せます。

決戦地の石碑
石田三成陣地って書いてあるのかなこれ
こっちは読めますね
笹尾山の石田三成陣跡の石碑
恐らく笹尾山馬防柵~島左近陣跡辺り
なぜここで撮ったのか
旗を撮りたかったのかな
家紋を見るにこちらは島津ですね
島津義弘陣跡
読みにくいですが本多忠勝陣跡の石碑
本当に民家の間みたいなところにあった
桃配山の徳川家康最初陣跡への道
ここを登ってみると、笹尾山がよく見える
陣跡から相手の本陣を臨む
霧がないとこうもはっきり見えたんだなあ、戦場

当時のわたしの「関ヶ原の戦い」の認識は学校で習う程度の知識とゲームでつけた知識がほとんどでした。全然浅かった。

この翌日、歴史民俗資料館にも伺いました。
古戦場という浪漫に飲み込まれ、わたしはあっという間に歴史の虜になりました。

史跡の浪漫

その後、わたしは各地のお城を見て回るようになります。
お城(城跡)や古戦場など、史跡というのは浪漫の塊だなと関ヶ原で感じたからだと思います。
何百年前、この場所で確かに生きた者がいる。死んだ者がいる。暮らした者がいる。戦った者がいる。そしてその先に、今の暮らしが存在している。
歴史を習っていれば当然わかることなのですが、それを直に感じるというか、現存の石垣や建造物を見るとぶわっと鳥肌が立つことがあります。
もちろん、普段わたしたちが暮らすこの町にも、道にも、何百年、何千年前に誰かが暮らしていたのでしょう。浪漫じゃん。

もの自体が残っていることもですが、その場所にずっと同じ時間が流れていること、その積み重ねの上に自分が立っていることを感じる、ということ。それがとんでもない経験のように思えて、ああ、歴史を知るって浪漫だなあ。と、あの日関ヶ原古戦場で感じたことが、今でも心の奥に残っている気がします。

関ヶ原の戦いのゆくえ

さて、日本史上でも短期決戦と言われる関ヶ原での東西両軍による戦。午前8時頃に始まって午後2時頃には勝敗は決していたそうです。今年はどうなったのでしょうか。

負けました。
これも毎年見ている光景ですが、きっと来年もリベンジするのでしょう。
頑張れ石田治部少輔三成。

こうして、石田三成は敗走。再起を図るための撤退、とされていますが、最終的には捕縛され、斬首されました。
居城であった佐和山城も落ち、三成は敗戦の将として後世に語られていくことになります。

その年の夏、石田三成の居城であった
彦根・佐和山城址にも行きました
デジカメを手に入れたので画質がぐんと上がっています

敗戦の将は後の歴史では悪者扱いされやすいもの。勝ったほうが後の世を築くのだから、そうなるのも当然ですね。
ただ、歴史なんて、たぶん、時代や見方によって良いも悪いも変わるんですよね。関ヶ原の戦いにしたって、家康が正しいという人もいれば、三成が正しいという人もいると思います。

それぞれがそれぞれの想いを持って、命を懸けた場所。それが関ヶ原。それが歴史に残る戦場というもの。

またいつか、関ヶ原古戦場に行きたいものです。
きっと15年前と変わったところ、変わらないところ、いろいろあるはず。
そこには確かに15年という歴史が積み重なっているのだから。











⚠以下、関係ないけど唐突にFGOぐだぐだイベント初日(9月14日)公開部分ネタバレ注意⚠



内容がガラッと変わるんですが、あまりにタイムリーなのでこれはツッコんでおきたいと思ってしまったので書きます。

まさか関ヶ原前日に治部少輔参戦するとは思わないじゃん。予告PVにちらっと大一大万大吉って出てたから来るかもって思ってたけど本当に来るとは。
なるほどねえ〜茶の湯バトルっていうのは千利休の茶の湯と石田三成の三献茶ってことですか。ってことですか?

そりゃ石田三成さんも取り乱すよね。わかる。

FGOぐだぐだイベント開催中です。
CMの途中でちらっと出てくる、一瞬クワトロ・バジーナみたいな金髪の方が石田三成と思われます。



ちなみにわたしは「戦国無双」シリーズに出てくる島左近が好きです。

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