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余白のはなし

『意義』とは、言葉、事柄、行為などが現実にもつ価値。何らかの目に見える利益につながること。

『意味』とは、「意」(こころ、思う) +「味」(味わう)

要するに、心をもって感じる、味わうこと。


『意義』ではなく、『意味』のあるところに、文化や芸術は生まれるというお話。


古代ギリシアの人々は、むしろそんな一見生産性のない、のんびりとした過ごし方を、「観照生活」と呼び、これを最も人間的で理想的な過ごし方であると考えていました。「観照生活」とは、「意義」を求めてあくせくするのではなく、大自然や人生そのもの、はたまた宇宙創生の原理などに自由に自由に想いを馳せること、つまりさまざまなことを「味わう」ことであって、これは文字通り「意味」を感じるような過ごし方であっただろうと考えられるのです。

そして、この彼らの「観照生活」こそが、文字を発明し、そこから哲学や宗教が生まれ、叙事詩などの文学、そして悲劇や喜劇などの戯曲を生み、さまざまな建築や彫刻を創り、そして神話を生んだのです。
つまり、「意義」だけに汲々としているのでは、文化は生じ得なかったのです。

ー 泉谷閑示『思考力を磨くための音楽学』より引用


開業して、割と間もない頃。
喫茶店のWebページを編集しながら

「喫茶店のテーマは、実現したいことは、一言で言うなら何だろう?」

一人ぼんやり考えていた。


その時に、ふわっと思い浮かんだのが

「人生に美しい余白を」

だった。
深く考えていなかった。


思いついた言葉の意味もあまりわからないまま、「なんかこれいいな」と、それだけで、Webページのトップにさりげなく文字を配置した。

この言葉の答え合わせは、多分これからしていくのだろう。
何年かしたら、「そうだったのか!」と、答えがわかったりするやつなんじゃないかな。

と、そんな感覚はあった。
だからそのまま何年も、深く問い詰めないままに言葉を据え置いた。


そして最近、その答え合わせが進んでいるような気がしている。


これまでの経験から考えるに。

意義を求めすぎて、余白を失った時。「愉しむ」を忘れた時。

喫茶ラムピリカは、力を失ってきた。

私や一緒に働く人たちが、
空間を、料理を、人との出逢いを、時々開かれる特別なイベントを、大切な人たちの表現を、「ただただ、愉しむ」ことに純粋に身を投じている時。

喫茶店は、力を溢れさす。

訪れる人たちをすこぶる元気にする。

それを見た私たちも、さらに元気をもらう。

嬉しくてたまらないほどの循環が生まれる。


そして、レシピや企画のアイデアなんかも、私が生産性のあることを何もしていないーーー全く意義を持たない余白の時間に、ぽこっと唐突に生まれてきた。

生まれたらその後はもう、楽しくて、勝手に身体が動いた。


「愉しむ」「味わう」ーー『意味』を大切にすること。

そして『意味』を大切にできるほどの余裕、ごきげんを保てるよう、常に工夫すること。

動きたくない時は、安心して休むこと。
余白を大切にすること。余白を信頼すること。

どんな内容の余白だったとしても、その時の自分が真に望むことをしているのなら、信頼すること。


「美しい余白」は、どんな概念や通念にも邪魔されない。

自分だけが、「美しい」と呼ぶことができ得る。

それでいい。
誰も気づかなくていい。
自分だけが知っていれば、満足していれば、それでいいのだ。


そんな余白を、これからも大切にしていきたい。

そんな余白から産まれるものを、これからも世に放っていきたい。


現実社会との折り合いもつけつつ、「無理だろ」って言われるようなことでも、やれる限りは続けてみたいのだ。

そうやって、生きることに『意味』を持たせていたいの。味わっていたいのだよ。


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