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人生かけて救いたい誰かがいるときに・・・

私は日本各地の街角で、街頭募金に立ったことがある。
2006年、重病で死の寸前だった村の子供カテンベの手術代のために、約半年間で一千万円を集めた。今にして思うと、あの街頭募金に立ったときが私の人生の転機だったように思う。なので、その時の経験を書いてみたい。

カテンベは私が親しい村の長老の甥っ子で、私はその村で「ジュンバ・ラ・ワトト」という名前の子どもの家を運営している。
私はケニアのキベラスラムという貧民街で「マゴソスクール」というレスキューセンター的な学校を運営しており、孤児や元浮浪児、虐待を受けたり様々な事情での極限状況にあった子どもたちを救済している。
スラムから500キロ離れた村に子どもの家を作ったのは、マゴソスクールを見たマテラ長老が、「私たちの村に連れておいで」と言ってくれたからだ。
「我々の村も貧しいけれど、親がいない子どもたちはかわいそうじゃないか。私たちの村に来たら、お父さんお母さんと呼べる大人がいっぱいいるからね。みんなで少しの食べ物を分け合って生きていけばいいから、連れておいで」
このように長老が言ってくれて、お言葉に甘えてスラムの孤児たちをたくさん連れていき、村で育ててもらうようになり、かれこれ15年になる。

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カテンベはその子どもの家の近所に住んでいて、みんなすぐに友達になった。その頃からカテンベは病気だった。村の他の子どものように歩いたりサッカーをしたりは出来ない。体も極端に小さい。しかし気が強く活発で、ユーモアがあって面白いので村の人気者だった。
カテンベが病気になったのは生まれてすぐのことで、それまで何度も村の人たちがみんなでお金を出し合ってカテンベを病院に行かせていた。それでも、親も貧しく、村人たちもみんな食べるものにも事欠くような生活だ。十分な医療が受けられないでいた。

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カテンベが小学5年生になった頃だ。どんどん具合が悪くなり、寝たり起きたりという生活になって、学校には通えなくなった。そしてついに、水を飲んでも吐くようになり、食事は一切受け付けず、痩せ細り、声も出なくなり、危篤状態に陥った。

その村で伝統音楽の修行をしながら生活していた友人の大西匡哉さん(マサヤ)が、彼を背中に負ぶってナイロビまで連れてきた。そして私たちは彼をすぐナイロビ病院に連れて行った。
その時のカテンベの表情を私は一生忘れることは出来ないと思う。やつれて声も出なくなったカテンベが、痩せ細った顔の中でその目だけがらんらんと輝いていた。彼はその目で、「死にたくない。僕は生きたい」と強く訴えていた。

医者に診せて様々な検査をした結果、医者には「もう手遅れだ」と言われた。
このままなら、これから持って2週間くらいでしょう、ということだった。
何か方法はないのですか、と聞いたところ、「それにはすごくお金がかかりますよ」と言われた。その方法は何かと聞いたら、今すぐICUに入院、人工透析を開始し、状態が改善したら腎臓移植手術を受けることだと医者は答えた。

カテンベは、すでに2つの腎臓が完全に腎不全になっていた。この状態でこれまで生きてきたこと自体が奇跡だと言われた。本来なら、生まれたときの検診ですぐにわかるような小さな問題だったらしい。腎臓をつなぐ管が少しねじれていたということで、ちゃんと検診が受けられれば赤ん坊のうちに簡単な手術で解決できたということだ。
しかし、貧しい村で貧しい親から生まれたカテンベは、そのような検診は受けられなかった。両方の腎臓は次第にダメージを受け、ついに完全に死んでしまっていた。

そのまま村に帰すということは、死を意味する。生きたい、死にたくないと必死で訴えている子どもを無惨にも見放すことは出来なかった。
私が持っていたお金をすべて投入してICUに入院。3日間で100万円が飛んでいった。人工透析を開始した。1回につき3万円くらいの費用がかかり、それを週3回、受けなければならなかった。
それと同時に、親族とも会議を開き、それほど体調のよくない母親が「息子のためなら、自分の体のどの部分でも使って欲しい。自分の命を差し出してもかまわない」と必死で訴え、皆で力を合わせて取り組もうと決めた。

さてこれからカテンベの医療費をどうするか。私とマサヤは片っ端から友達に相談した。
その返答を読んで、私は何度も崖から突き落とされた気持ちになった。特にアフリカにそれまで深く関わり、ケニアの事情もよく知る友人が何人も、支援することに反対の意見を唱えた。

「アフリカの普通の村の子どもであれば、そのようなときは高度な医療は受けられずに死んでいくのは正直言ってそこでは当たり前のことだろう。そのまま村に連れて帰ってあげるのが、武士の情けというものではありませんか」
「臓器を移植してまで生きるということは、自然の法則に反しているので私は賛成できない」
「その一人の子どもにかかる膨大な費用で、いったい何人の貧しい子どもたちが救えるか。一人の子どもにそんなにお金をかけるのはフェアじゃないと思う」
「それをするなら、私はあなたへの信頼を失います」

カテンベが入院してから約一カ月、私はこのような様々な意見を聞きながら、底なし沼にズボズボとはまっていくような感覚だった。その間にも、お金はどんどん減っていき、ついに私自身の持ち金はすべて底を尽いた。

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しかし、私の背中を押してくれた友人たちがいた。一人は、そのときまだ中学生だった。彼女自身も難病を抱えていて入退院を繰り返していた。
彼女はこう言ったのだ。
「私の高校進学のために貯めていたお金を、カテンベくんに送ってあげて」

シングルマザーの友人が3人の子どもを苦労して育てていた。その長女である彼女が、こんな風に言ってくれて、すぐにそのお金を送ってくれた。
彼女のお母さんは私にこう言った。
「お金があればカテンベくんは死なずに済むんでしょう?それならそのお金を集めようよ」

そうだ。ごちゃごちゃと頭の中で考えている時間はない。いま目の前で、死にかけている子どもが、「死にたくない、生きたい」と言っているのだ。とにかく精一杯、出来るだけのことをしよう。お金を集めよう。

その時ちょうど時を同じくして、私の娘が16歳で出産し、その同じ病院に私の古い友人が銃で撃たれて担ぎ込まれた。彼の命を救うために数多くの友人たちが集まり献血をした。数日間、彼はICUで闘ったけれども、目を開けることなく息を引き取った。その友人はそのほんの2カ月ほど前に、マゴソスクールに来てくれて、子どもたちのために長く長く優しいお祈りをして歌を歌ってくれたのだった。

それから私はまさに髪振り乱してという言葉の通り、必死でお金を集めた。多くの友人たちがそれに応えてくれて、募金の窓口になってくれる人、手作りのTシャツやアクセサリーを売って募金してくれる人、ライブイベントを開催して募金してくれる人など、「カテンベくんを救おう」の合言葉のもとに次々と仲間たちが集まってきた。

その間にも、刻一刻とカテンベの容態は変化し、透析を受けている途中に何度も意識不明に陥って、ICUに送られた。
3日間、意識不明で生と死の境をさまよった末に、それでもカテンベはいつも意識を取り戻して私たちのもとに帰ってきた。そのときのことを、意識が戻ってから彼は話してくれた。
「神様のところまで行ってきて、自分で交渉して許されて帰ってきた」と。
神様に面会し、僕はまだ死にたくありません、生き返らせてください、とお願いしたのだという。意識を取り戻したときに、カテンベは、親指を上にあげて「やったぜ」という顔をしながらだんだんと目を開けた。

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さて、この手術費用を集めることは時間との闘いで、カテンベはその間ずっと入院したままで、費用はかさみ続ける。注意深く治療を受けながら、彼の体力的にも最高の状態に整ったベストなタイミングで手術を受けるようにしたいと、医療チームも最大の努力をしてくれた。その病室は、重い病気の子どもたちばかりが集まる病棟で、私とマサヤは日参しながらその子どもたちや親御さんたちと運命共同体のように仲良くなっていった。

ルワンダから、クレアと、ユージニという、やはり死の寸前の女の子たちが緊急移送されてきた。カテンベと同じ病気で手術を必要としていた。彼女たちはルワンダの1994年の大虐殺で被害を受けた子どもたちで、特にクレアは両親共に虐殺で亡くした遺児だった。
虐殺遺児の基金が彼女たちの医療費をサポートしていた。そんな子どもたちが、お互いに励まし合いながら、生き抜いていく勇気を持ち合おうとしていた。

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病院でのサポートをしつつ、お金集めを急がねばならなかった。一千万円を集めるということは、並大抵のことではない。しかも、そんなことを私たちはそれまで一度もやったことがなかったから、お金集めにも経験がなかった。今のようにはSNSも発達していない時代で、私はfacebookもTwitterも知らなかった。わずか、当時流行っていたmixiだけが通信の手段だった。

時間がかかればかかるほど、カテンベが生存できるチャンスが低くなるし、もっとお金が必要になる。
矢も楯もいられぬ思いで私がついに実行したことが、日本での街頭募金だったのだ。

これにはかなりの勇気が必要だった。
何しろそもそもそれまでの私は、渋谷や新宿などの雑踏や、東京の地下鉄の構内の人込みなどがものすごく苦手だった。表情のない人々が大量に無言で通り過ぎていく人波に流されていくと、無性に怖くなったり寂しくなったりした。だからそれまで日本に行っても、出来るだけそのような人込みは避けるようにしていたのだった。

だけどもう背に腹は代えられない。街頭募金ってどうやったら出来るのか、友達に調べてもらった。そのためには書類を整えて警察や駅から許可証を取らないといけないことがわかり、その申請をした。
そして、「私と一緒に街頭に立ってくれる人はいませんか」と呼びかけをしてみた。すると、一緒に立ちたいと言ってくれる人が次から次に出現したのだ。
学生や、定年退職した男性や、家庭の主婦や、OLなど、いろんな人が手をあげてくれた。子どももいた。みんなが、カテンベを救いたいと言って、いろいろと工夫して募金箱を作り、ポスターやフライヤーを作ってくれた。

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そしていよいよ、私は来日して、日本各地で講演をしながら、街頭募金のために街角に立つ日がやってきた。道行く人々に「助けてください」と声をかける。生まれてはじめての経験だった。

出来るだけ人通りの多い場所で、街頭に立つ。声を出してみる。人々が通り過ぎる。まるで波のようにどんどん通り過ぎる。誰も立ち止まってくれない。
心が折れそうになる。
でも、勇気を出してもっと大きい声を出してみる。喉がカラカラになって、声がスカスカになっているような気がして、なかなか声が出ない。
誰も立ち止まってくれない。

それでも気を取り直して、もっと大きな声を出してみる。気弱な声で「ご協力お願いしま~す」と言っていても、誰も立ち止まってはくれないのだ。だんだんと、恥も恐れも無くなってきた。それよりも、病院で苦しんでいるカテンベの姿や、痩せ細って歩くこともできない姿になっていたクレアやユージニの顔が思い浮かんだ。なんだか涙が出てきた。
本人たちが死にたくないと言っているのに、死なせたくない。何とか助かる方法があるのなら、何とか助けてあげたい。
だんだんと声が大きくなった。
「このままだとカテンベが死んでしまうんです。死なせたくないんです。手術を受けさせてあげたいんです。どうかお願いします!お願いします!助けてください!」

すると、通り過ぎていったスーツ姿の男性が、しばらく歩いてから、立ち止まり、くるっと振り返って私の前までやってきた。そして、財布を出して、1000円入れてくれた。
「頑張ってくださいね」

そう言って立ち去った。
それから、次々と立ち止まってくれる人がいた。自転車に乗っていた中年の女性。わざわざ自転車を止めて、私に話しかけてくれた。
「私の子どもは病気で亡くなったのです。助かるようにお祈りしていますね」
お金を入れてくれた。

お父さんとお母さんに手を引かれて歩いていた子ども。通り過ぎていったあとに、その子だけずっとずっと振り向いている。そして、お父さんとお母さんの手を引っ張った。親たちはおしゃべりに忙しいようで、子どもが一生懸命何か言おうとしていることに気が付かない。そんな姿を見た。

学校帰りの小学生が立ち止まって、じーっと見ている。何も言わずにずっと見ている。しばらくそうしていたけど、立ち去っていった。そのあと、一時間くらいたってから、財布を持って戻ってきた。財布をあけて、中に入っている小銭を入れてくれた。

私がナイロビで何年も一緒に働いていた友人が、結婚して東京に住んでいた。そしてその街角まで、小さな息子を連れて来てくれた。息子はお金を手にして、募金箱の中に入れて、「カテンベくん、がんばってね」と言った。

高校生らしき女の子たちがキャッキャと言いながら通り過ぎた。でもその中の一人が、私たちの募金呼び掛けの声に気が付いた。通り過ぎてから足を止めた。そして周りの友達にこう言った。
「ねぇねぇ、子どもの命を助けてくださいって言ってるよ」
「ちょっと見てみようよ」
やってきて、ポスターを読んで、「ねぇこれお金入れようよ、お金あるでしょ、みんな出しなよ。私は入れるわ」そう言いながら一人が入れると、次から次にみんな入れた。

それまで私が怖かった東京の雑踏は、無表情なんかじゃなかった。そうやって街頭に立って見ず知らずの人々に本気で呼びかけてみると、一人また一人と、その声を聞いて立ち止まってくれる人がいた。振り向いて励ましてくれる人、声をかけてくれる人、自分の話をしてくれる人、他の人を呼びにいってくれる人。
ケニアって国、どこにあるの、まったく知らないという人もいた。アフリカなんてこれまで一切何の関わりもなかった人たちがほとんどだったと思う。
それでも、通り過ぎてもまた気になって引き返してくれた人、立ち止まってくれた人、笑顔を見せてくれた人。人間とは、なんてあたたかいんだろうと思った。

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やっとのことでギリギリかき集めたお金を持って、ケニアに帰り、2006年10月26日に手術を行った。カテンベの場合はそれまでも何度も状態が悪化し、ICUを出たり入ったりで、体力的にも決して万全とは言えなかった。手術室の外で私たちは祈りながら終わるのを待った。
その待っている間、カテンベを救おうと手を差し伸べてくれた人たちの一人一人の顔が思い浮かび、エールを送ってくれているのを感じた。

手術の時間はマゴソスクールでもジュンバ・ラ・ワトトでも子どもたちがみんなで一斉にお祈りをした。

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手術が終わり、出てきた医師の満面の笑顔を見て崩れ落ちるようにホッとした。そして彼が言った。
「じゃんじゃんと、おしっこが出ていますよ。もう何リットルも出ました。大成功です」
母親からもらって移植された腎臓は、体内に入ってすぐに働きはじめ、カテンベに繋がれた管からは、じゃんじゃん尿が出ていて、袋がいっぱいになっていくのを見た。
命とはなんてすごいんだろう。

そして、この命は、自分一人の力で生きているのではない。たくさんの、たくさんの人たちと共に生きているんだ。
ツライとき、苦しいときは、助けてくださいって言っていいんだ。そしたらそれを受け止めてくれる誰かが、この世界には絶対にいる。
私は、このカテンベを救う募金運動の経験を通して、人間のまごころ、そして、この世界の善さを、信じられるようになったと思う。だから、それからの私は、どんな活動をするにも迷いや恐れが一切なくなった。

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さて、あれから14年たち、カテンベ、クレア、ユージニはそれぞれ大人になり、元気に生きている。
クレアは結婚して3人の子どもの母親になった。肝っ玉母さんのようにたくましくなって、幸せな家庭を切り盛りしている。私はルワンダに何度もクレアとユージニに会いにいっている。
カテンベは、故郷の村に戻り、病弱な妹や母親を支え、働いて家族を助けている。そして、今回のコロナ禍で困窮した村の人たちへの食糧配布を手伝ってくれている。この写真の左端の白いTシャツがカテンベ。

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自分たちの命が、数多くの人々の助けのもとに生き長らえたということをよくわかっていて、いつもその感謝を忘れていない。そして、社会の助けになることをしたいと思って、よく動いている。

私自身が実際に経験したことで、確信を持って言えることがある。
それは、もしもあなたが人生かけて救いたい誰かがいるときに、そこであきらめずに自分自身が一歩前に踏み出したなら、それによって自分自身にも力がもらえる。ということだ。だから、そこから先のあなたは、それまでのあなたではなく、以前は出来ないと思ったようなことも、出来るようになる。

そして、もしもそうやって勇気を出して声をあげている誰かがいたら、見ないふりをして通り過ぎないで、立ち止まって耳を傾けたいと思う。そうしてくれた人が私の人生にもいたから、私の人生に確かな力を与えてくれたから。

「世界はこうやって出来ているんだよ。だから、大丈夫だよ。一生懸命声をあげてみたら、あなたに気付いてくれる人が必ずいるから。世界はあたたかい場所だよ」
私はこれからも子どもたちや若者たちに、そう確信持って伝えていきたいと思う。

★カテンベくんが生きててよかった、という歌を子どもたちが作って歌っている。日本語の字幕もついているので、カテンベの子どもの頃からのスライドショーと共にぜひご覧ください。


★カテンベとマゴソスクールの子どもたちとでCDを作りました。カテンベが闘病中に歌った歌声がこのCDで聞けます。14曲目の「Nyoyo 〜心〜」


★最近のカテンベについて。
人気youtuberのリョースケさんと、ChekaTVのユーキさんが今年の3月に村を訪問してくれて、その際にカテンベの家にご案内した。その時の動画がUPされているのでご覧ください。


★このカテンベが暮らす村はミリティーニ村といい、村人たちは様々な困難な状況を抱えている。それを取材してくれた動画がこちら。ジュンバ・ラ・ワトトも出てきます。


★尚、この街頭募金のことを書こうと思い立ったのは、ウガンダで支援活動を行っている原寛太さんがyoutubeにあげたこの動画を見たからだ。
募金に対しては様々な印象や考察、偏見などもあることと思う。だけどもしもあなたも、人生かけて救いたい誰かがいるときに、助けを求めることを躊躇しないでもらいたいと思う。その真摯な想いを受け止めてくれる人はきっとこの世界にはいると思う。だから私は自分の経験を話したいと思った。


★募金は偽善的という声を聞くこともあるが、偽善的ではない活動もあるので、ぜひ知っていただければと思う。この動画はマゴソスクールを1999年にはじめたスラム住民のリリアンが10年以上前に語った動画なのだけど、ぜひ見ていただきたい。私はこのリリアンと一緒に二人三脚でマゴソスクールとジュンバ・ラ・ワトトを運営している。

★カテンベと同級生の元浮浪児トニーが高校生のときに語ったキベラスラムの動画。今では彼は社会人になり、アーティストとして活動しながら、浮浪児たちへの支援活動をしています。

★マゴソスクールとジュンバ・ラ・ワトトの支援窓口「マゴソスクールを支える会」。


早川千晶

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