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ケアについて考える

二年に一度、子宮頸がん検診を受けている。

検診当日の朝、大変ゆううつで行きたくない気持ちになり(内診台に乗るのも痛いのもすべてが嫌で面倒だ)、「あー子宮頸がん検診いきたくないーけどちゃんと行くから誰かほめてー」などと仕事仲間のグループLINEに投下する。

すると「あーあれ痛いですよねー」「力抜くと痛くないから!」「終わったあとのご褒美のことを考えて乗り切りましょう」などとみんな様々にリアクションをくれる。そこでやっと、よし、いっちょ行っときますか、という気持ちになり、無事検診を乗り切る(そして検査はやはり痛い)。

検査や治療そのものが、自身に有益になりうることは理解していても、それにまつわる煩雑さや苦痛を乗り越えるためには、このようなインフォーマルなつながりによる日常的なケアが大きな役割を果たしている。

誰かのケアや困難な状態の改善について考えるとき、つい一足飛びに「検査」や「医療行為」そのものについて言及してしまいがちだ(例えば「あの人はちゃんと治療を受けたほうがいい」とか)。

本人の暮らしにおいては、日々のルーティンをいったん整理して、その治療を受け入れる時間を作る煩雑さや、治療のプロセスで起きうるストレス(金銭的な負担や身体的・精神的な痛み)について、同じ土俵で受け止めてもらう作業が必要だ。

そこも含めたうえでの「ケア」なのだ。

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