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論理も宗教だった。『サピエンス全史』の話

世界統一と身内の平和。サピエンス全史

  『サピエンス全史』が面白い。なるほど「読みだしたら止まらない」という評価も十分に頷けます。著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏の書き方、及び訳者の訳が上手いのでしょう。平坦な文章にも関わらず、知的興奮を味わえる。文字の羅列の中から、マーベル映画のようなアクションが脳内で映像化される。サルから人間に進化したヒトの苦悩や、領土を広げる際のローマ皇帝の高揚が想像できます。

 さて、本書の第12章には「宗教という超人間的秩序」というタイトルがついています。世界を統一した3つの原理、貨幣、帝国、宗教のうち、宗教についての内容。人類史は概観すれば、いくつもの小さな個々の文化が、大きな一つの文化に統一される歴史であるという。何によって統一されたのか。ハラリ氏は、貨幣、帝国、宗教という3つの原理を提示します。これらによって、世界を単一に見る視点がもたらされました。商人は貨幣によって世界を相手に商売ができる。帝国は君主は世界を支配下に置こうと覇権を目指す。宗教は世界中の人間を傘下に収めようと布教してまわる。それまで世界を単一に見る視点をもった者はいませんでした。狩猟採集文化の人類に、世界征服の欲はなかった。親族や同胞など、近くにいる身内の平和や幸福をのみ願っていたのです。

野球のルールと釈迦の苦悩。宗教とは

 ハラリ氏によると、宗教とは「超人的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体型」なのだという。この定義は意外です。というのも、この宗教の定義に「神」が入っていないからです。一般的に私たちは、「宗教」と言われると「神」を連想します。「宗教とは神を信ずること」のような。ところがハラリ氏は、宗教の定義だというのに、神には目もくれません。……が、それもそのはず。宗教にとって、神とは付随物でしかないのですから。神を持ち出すことは、宗教にとっての必要条件ではありませんでした。私は今まで、宗教とは神を持ち出すことだと思っていました。というのも、宗教とはどれも神への信仰を促すものだと思っていたからです。キリスト教は、全知全能至善の神を想定していて、その子どもがイエスだという。これを信じなければ私たちには、地獄行きいう罰が下る。イスラム教も似たようなものでしょう。
 が、これら神と宗教を混同する考えは、イメージでしかなかった様です。現に儒教などは神を持ち込みません。だから、私は今まで「儒教って他の宗教と比べて、なんか違うな」と思っていた。なんとなく「宗教っぽくないな」と。けれど違っていたのは私のイメージの方でした。儒教が宗教の定義に当てはまらないのではなく、儒教を宗教から外そうとする定義が間違っていたのです。
 仏教だって元々は、神を持ち出しません。日本では仏教の宗派が多岐にわたっていますし、神道とも混じってもいますから、元々からは変化してしまっています。が、釈迦の教えに戻ってみるとわかります。釈迦は元々、解脱(げだつ)を説いたのでした。「欲をなくして生きよ」と。生老病死の苦をなくすにはどうしたらよいか。それが王子・ゴータマ・シッダールタが面した苦悩でした。それに対する答えが解脱。ここに神は関係ありません。仏教の教えは元来、神とは無縁だったのです。

 宗教とは、「超人的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体型」。
 「超人的な秩序の信奉に基づく」とは、「人間が手出しできる範囲を超えたものを信奉せよ」という意味になります。例えば、スポーツは宗教ではありません。確かにスポーツは私たちに「健康に生きよ」と啓蒙してきます。皇居の周りを走っているランナーなどは、私らに対し「皆んなもやれよ、気持ちいいぜ!」と親指を立てるでしょう。大谷翔平はグローブを配って啓蒙するし、キャプテン翼の世界ではサッカーボールを配る。スポーツを通した健康的な生活を価値観として押し付ける(当人らに押し付けている気はないのでしょうが)。けれど、スポーツのルールは人間が考えたものです。超人的な秩序ではありません。バスケは近代アメリカの発祥です。たしか、体育の先生が「屋内でプレーできるスポーツを」と考えたものだったとか。テニスだって野球だって、ルールは人間が考えたもの。テニスラケットの規定やテニスコートの規定は歴史の中でルール化されていったものであって、宇宙の原理ではありません。野球のバットや、ダイヤモンドや、ホームベースだって、元々は石とか木の棒だったものがプレーする中で改良・規定されていったのであって、これも宇宙定数ではありません。
 「人間の規範や価値観の体型」とは、生き方としてルール化されていること。例えば、物理は宗教ではありません。確かに発見される事実は、超人的な秩序の信奉を我々に促します。原子は量子と中性子と電子からなっていると言われば、マグカップにだって、紙の本にだって、実際に自分には見えなくともそのようなミクロな世界をイメージします。太陽の位置が地球から約1億5千万キロだと言われれば、光の速度が秒速約30万キロだから、見えている太陽が8分前の姿だと考えるでしょう。実際に自分で実験せずとも、太陽光が過去のものだとイメージする。極小の世界も極大の世界も、これらの規定は人間が決めたわけではなく、あらかじめそうなっているもの。けれど、これら物理的事実は、私たちに規範を求めません。信じるも信じないも良し。非科学的に生きても無問題。「俺は電子なんて信じないね」とか「太陽とは、天のドームに空いた穴のことさ」と言ったところで、地獄の業火による罰は下りません。周り人からの見る目が変わるだけ……。
  スポーツや物理は宗教ではなく、宗教とは「超人的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体型」なのです。

違反を認めるか、それとも幼稚な独善か。論理も宗教

 さて、そう考えると、少し不都合なことが出てきてしまいます。「不都合」などといっては宗教に失礼でしょうか。それは「論理とは宗教では?」ということ。というのも、論理が「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体型」という宗教の定義に合致してしまうからです。

 論理学者でレトリック学者の香西秀信氏は、自身の著書『論理病をなおす!』の中で、論理を(正確にはレトリックを)「人間が犯しがちな思考上の癖」だと考えています。

詭弁を学ぶことは、この思考力の向上に役立つ。なぜなら、詭弁を研究、勉強することで、人間がものを考えるときの本質的な「癖」のようなものが見えてくるからである。

香西秀信「論理病をなおす! 処方箋としての詭弁」

 論理的思考を啓蒙する著書を多く書いている小野田博一氏は『13歳からの論理トレーニング』の中で、論理を「前提と結論をつなぐ無形のもの」と表現しています。

 「論理」とは、「推論を行う際の考え方の形式」とも「前提と結論をつなぐ無形のもの」ともいえます。

小野田博一「13歳からの論理トレーニング」

 つまり論理とは、都合が悪いからといってスポーツのように簡単にルール変更ができる類のものではありません。人間の手を超えた秩序のことなのです。

 実際、論理は強力です。論理的に説明されると納得してしまいます。納得せざるを得ないのです。
 私は以前、警察官をやっていたことがあります。道交法違反の違反者を取り締まる際は、法的基準を示して説明します。
 「道路交通法第38条は、横断歩行者妨害についてです。横断歩行者妨害とは、横断歩道を横断する歩行者がいるのに、横断歩道の直前で一時停止しないで歩行者の横断を妨害することです。あなたは今、横断歩道に歩行者がいるのに止まらないで走り去りました。道路交通法第38条に違反しています。だから違反なんです。」
と。このように法的基準を示して説明されれば、違反者は反論が難しいでしょう。「違反じゃない」と言い張れば、「論理的ではない、頭の悪い人間」という汚名をかぶらなくてはならず、そんな汚名に大抵の人は耐えられるものではありません。
 論理構成に従った文章や発言も納得を促します。理由と具体例を伴って説明された主張は、その理由と具体例が適切であれば、感情的に相手が嫌いであれど「なるほど」と思わずにはいられないのです。「警察がコソコソ取り締まっていいのか」というクレームに対し、
 「コソコソ取り締まってもいいんですよ。どうしてかというと、そうしないと違反者を見つけることが出来ないからです。違反者は違反をしていても、警察官の姿を見たら違反をやめるかもしれない。普段は違反をして運転していても、警察官を見れば違反をその時だけしないかもしれない。堂々と姿を見せて取締りをしては、普段違反している人を見つけることができなくなるんです。だからコソコソ取り締まってもいいんです。」
と。このように説明されれば、「確かに、そういう見方も無くはないな」と考えるでしょう。
 基準を示されて違法性を説明されたり、論理構成に沿って意見を言われれば、感情的に相手が嫌いでも「そうかも……」と思わずにはいられないのです。

 そして論理は、論理的であることをを私たちに強います。「いやいや論理的であることを強いたことなんて無いよ」というあなた、小野田氏の著書を読んでみなさい。論理的思考を啓蒙したり、論理を優越視する考えは、論理的思考の持ち主なら身に覚えがあるでしょう。

「発言・記述・行動が論理的に見えない人の問題点は、思考能力にあるのではなく、論理的思考の結果を軽視・無視している点にあります」

「勝手な解釈をして、それを前提に話をする人の発言は、往々にして非論理的になります。(中略)「考える緻密さ」を養うことが大切です。「厳密に考える習慣」をつけましょう。」

「論理思考能力が低い人は、理屈と気持ちがつながっていなくて(思考のなかで理屈と気持ちが別ものとして同時に存在していて)、それで、不可能とわかっていても望んでしまって悩むのです。」

小野田博一「論理的に考える力を伸ばす50の方法」

 つまり、論理とは「人間の規範や価値観」なのです。
 論理は「客観的に生きなさい」と求めます。感情を廃して、理屈で説明せよと。でないと、幼稚で独善的な印象を相手に与えます。でもって私たちは、幼稚で独善的な人間という烙印に耐えられないのです。

 それから、論理は体型だってもいます。どのようにすれば論理が身につくのか、論理的に文章を書くにはどうすればいいのか、わかりやすく(論理的に)書かれているのが論理を標榜する本です。実際、私の目の前にある『誤謬論入門 優れた議論の実践ガイド』の帯には、「知的態度に取り入れるべき12の原則と、それに違反する60の誤謬」と書かれており、論理的思考を促すこの本の内容が、体型だっていることが仄めかされています。


 どうでしょう。ここまで説明されれば、もはや火を見るよりも明らかではないでしょうか。『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ氏によると、宗教とは「超人的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体型」である。論理とは、
・思考上の癖なので、超人間的な秩序であり、
・他人に論理的であることを求めるので、(論理という)信奉に基づく人間の規範や価値観であり、
・多くの事柄をうまく1つにまとめられているので、体系である。
つまり、論理とは「超人的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値観の体型」です。だから、論理とは宗教、ということになるのです。




 や、面白かったです。くすぶっていた疑問をいくつか解決できましたから。
 例えば、個人の自由と平等の話。この2つって社会の根本的な価値観のように思えますが、お互いに矛盾していますよね。自由と平等は両立しない。人がそれぞれ自由に動いたら、不平等が出てきてしまう。それぞれを平等に扱うには統制が必要なんです。この2つを根本の価値観と感じると同時に、両立しないとも感じる。でも矛盾を抱いていることに後ろめたさは必要ないという。歴史を見ると、人はいつも矛盾を抱いていたから。それが文化なのだとさえ言っています。中世の騎士なども矛盾を抱えていました。キリスト教と騎士道の矛盾に折り合いをつけられずにいたのです。朝には教会で暴力と贅沢を避けるよう教えられ、夕方には君主の城で饗宴での戦話にふける。この矛盾が、文化のの変化に弾みをつけるのだと言います。
 例えば二元論の話。西洋有神論には。「悪の問題」と同じように、「秩序の問題」というのがあります。もし善と悪がこの世界の支配権をめぐって争っているのなら、これら宇宙の究極の力どうしの戦いを支配する諸法則は、誰が執行しているのでしょうか。対抗する二つの勢力が戦えるのは、両者が同じ法則に基づいているから。では、その法則は誰が決めたのか。このように、二元論は悪を説明できるが、秩序に悩んでしまうのです。私も以前から、「一神教でなければならない理由は何なのか」と疑問に思っていました。一神教でければ、秩序を説明できない、ということなのです。
 このように知的興奮を味わえる。早く読んでおけば、と後悔。「皆んなが読むならオレばいいよ」なんて考えずに素直に読んでおけばよかった。

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