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非日常 【かわいい(不登校の)子には旅をさせよ(ママにもね)】

不登校の息子とのベトナム5週間の旅もニャチャンからホーチミンに移動し、いよいよ最後の1週間となりました。

ホーチミンはベトナム最大の都市というだけあって、賑やかで活気があり、観光スポットもたくさんあります。統一会堂、ベトナム戦争証跡博物館、中央郵便局や聖母マリア教会を始めとするカトリック協会など、古い建築物が多いのが印象的です。また、これらが狭い地域に集中しているので、息子は勉強や授業の時間を確保しつつ見てまわれます。各スポットが見て回る系なので、それほど時間を使わないのもよかった。

私の(息子も)好きな旅行のスタイルは「場所を変えていつもと同じことをする」こと。こう書くとなんだか急にワクワク感のない、面白くない感じがしますが… 旅とはいつもと違う環境に身を置き、新しい出会いや体験ができる非日常体験で、旅行に行くと大抵の人が新しい体験を求めていつもはしないことを(例えば息子がカイトサーフィンをしたいと言ったように)自分から体験しに行くと思います。私もそういう旅行をしてきました。

それもとても素敵だと思います。それが悪いということでは決してなくて、他の旅行のスタイルもあるんじゃないか、アリなんじゃないか? と考えるようになったのです。旅行だから、非日常だからいつもはやらないことをやってみる! も、すごくいいのですが、環境は非日常だからやることはいつもと同じにしてみたら、してみても、いや、したほうがむしろ、日常との差がよく分かるんじゃないでしょうか。特に、自分の内面、感じていることに集中できると思います。異国の地で、非日常で、自分は何を感じ何を考えるだろうか? 滞在期間、みっちりと予定を詰めて、いつもはしないこと、見ないことをとことん楽しむのもいいのですが、それだと受信過多になりがち。胸はいっぱいになるけれど、思考はそれに押されて動く余裕がなくなります。「楽しかった!」「きれい!」「すごい!!!」それもとっても大事な感情ですが、それだけというのもなんだかさみしい。「せっかく」という言葉は好きではありませんが、「せっかく」海外に行ったというのなら、ちょっと冷静になって体験を消化する時間があるといいのではないでしょうか。

そもそも、海外にいるというだけで気はそぞろになるものです。いくら観光を少なくしてゆっくりするといったって、非日常に身をおいているという興奮はつきまとうもの。そして、帰国して日常に戻ってしまえば、旅の出来事や感じたことは思い出というラベルがついて、今いる日常とは遠く離れた存在になります。旅の最中に抱えた感情や感覚は、写真を見返したとしても100%戻ることはありません。非日常で感じたことは、非日常にいるうちによく噛み締めて「ああ、自分はこんなことを考えたんだな」と心の中でいいから確認しておくのが一番です。

と、日本に帰り、すっかり日常に戻ってこの文章を書きながら痛感しております。もちろん、旅のことはまだ鮮明に覚えています。でも、あの時に感じた感覚はもう鮮明には思い出せません。感じたことがあったような気がしてるだけかもしれません。それも今は定かではない。本当に、文字通り、一握の砂のように、するすると記憶から落ちてしまって、手の中に残ったのは具体的な出来事の記憶だけ。ベトナムでのリアルな感覚はなくなってしまいました。非日常というものは貴重なものだとは思っていましたが、非日常そのものというよりは非日常の中にいた自分の感覚・感情がとても貴重でした。

覚えているのは、そうですね、家族3人(最後3日間は夫も合流しました)でホーチミンの4月30日公園でウノをして、現地の若い子たちに不思議な目で見られたときの感覚くらいでしょうか(平日の早朝に公園にレジャーシートを広げて語り合っている若い子たち(女の子が多かった)の2〜5人のグループが多いのです)。そういうときの感覚や感情はもちろん覚えているのですが、ホテルからその公園に行くまでの道、家族3人で歩きながらどんな気持ちだったかというのはもう思い出せません。

自分の気持ちなのに思い出せないとは、やっぱり人間の記憶なんて大したことはないですね。だからこそ、またあの感覚が味わいたくて旅に出たいと人は思うのでしょうか。次はどこに行こうか、密かに計画を立て始めている母なのでした。


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