見出し画像

ボンドの中はミスタードーナツのような幸福

たとえば、夫を亡くした妻が気丈に振る舞っているのを目撃した時、
「絆があったんだな」とか、「良いご夫婦だな」とか、そんな感想でまとめて、感動する というような経験をこれまた目撃する


しょせん、私たちには誰かの実態など見えなくて、想像をするしかなくて、名前をつけて保存したがるのかもしれない
コレクションをするということは、誰しもが持つ共通の唯一の趣味なのかもしれない


その上で、いわゆる「当事者にだけわかっていれば良い」という感情とか関係性は、
物凄く強固なボンドで塗り固められていて、そのまま埃をかぶっても、なかの繊維は新鮮なまま、きっと自分が死んでからあの世で口に入れても、何度も喜んで食べられるだろう。
恐らく、天国とはそういう場所で、何度も、素晴らしく美味しいものを繰り返し食べて感動できる場所なのだと私は思っている。


虚像の、偽物のミラーみたいな構造の、
公共の場で、敢えて偽りの自分を見せ続けることに拘ってきた私は、きっと人様に「予想」をされても、諦めもあれば、我儘に「違うのに」と思うことがこれからあるだろう。
それは私が望んでいたことでもあるし、最も避けたいと願う本能的な部分が剥き出しになってしまうような事象でもある。



今の世の中はだいたいどちらかに振り切っている気が勝手にしていて、
誰かが死んだ時の身の振り方もカテゴライズされている。別に誰が決めたわけでもなく、結果論としてカテゴライズされている。


それらを破る という気負いも別に必要がなく、ただ感情の赴くままに、ここばかりは自分の気持ちを優先し、気ままに振る舞うしかない。



その覚悟が本当に自分にあるのかはわからないが、今、「酢いか」を頬張る自分には、予測しても仕方のない案件であろう。



お金ができたら、東京に行こうかな
多分私は、東京に染まってがらっと自分が変わってしまったとしても、それはまたそれ という具合で、何かを摂取したことになる。



変わらないでこのまま死ぬことが、きっとかなり怖いことなのだと思えている、このぬるい環境を、胃の不調を3年抱えながらも冷たい目で見つめることが、今の私に唯一できる、最大限のこと



ダンボールの甘さを、無視しながら、今は寝ている。
いつかその甘さをただの無機質な味として捉えたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?