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歴史の旅を提案:松山から高松へ

このシリーズ(実業之日本社:地理・地名・地図の謎)は、とっても面白いです。実際に旅をしながら、これらの書を眺めると、感慨深いものがあります。Go toキャンペーンと合わせてぜひ利用してみてください。海外に出られない今こそ、日本中を回ってみるのは、とても楽しいものです。たとえば、ひとつの旅事例として、四国北部を提案してみます。

日本三大古湯のひとつ:道後温泉

四国最大の都市は松山です。四国北部ではこれに並ぶ都市が高松です。両者を比較したサイトもありますので、ぜひご一読されると面白いです。今回の旅の提案は、たとえば松山から入って、高松から抜けるというルートです。松山には道後温泉があります。日本三古湯(有馬温泉、白浜温泉と並ぶ)のひとつで、大和朝廷から聖徳太子や中大兄皇子、天皇なども訪れている名湯でした。今の道後温泉本館は、明治23年に建て直されたものです。堂々とした建物の屋根には白鷺のオブジェがあります。昔、足に傷を負った一羽の白鷺が、毎日温泉に降りて、傷んだ足を浸していたのだとか。人々が温泉の効用に気づいたのは、白鷺が元気になった姿を見てからだと言います。そんな松山では、松山城も強力な観光スポットです。現存する12の天守を有する城のひとつです。この松山が中心となり、江戸時代の8つの藩がまとまって愛媛県が成立しました。愛媛では宇和島も有力な藩でしたが、四国の南半分に位置するので今回の旅ルートでは省きましょう。幕末の宇和島藩主・伊達宗城は、「四賢侯」の一人に称せられ、幕政にも一時関与しました。

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ジャパンブランドとなった今治タオル

愛媛には優れた地場産業があります。代表的なものは製紙業です。大王製紙、ユニ・チャーム、リンテックなどの工場が立地しています。もともとは和紙の原料である楮(こうぞ)・三椏(ミツマタ)が採れたからですが、その後ダムができたり、地元資本が合併して大王製紙ができたりで、いまや四国中央市は日本一の紙の町として知られています。

今治ではタオル製造も有名ですが、始まったのは明治半ばの頃です。今治のタオル作りは、川の水質に助けられてきました。蒼社川です。重金属の含有量が非常に少ない軟水です。この軟水を用いて染色や晒しを行い、発色に優れた肌に優しいタオルが出来上がります。今治はもともと綿織物の産地でした。一時、輸入品に押されていましたが、機械を導入し、人々の力で技術躍進を遂げました。今日では高級タオル路線に舵を切り、ジャパンブランドの代表格として大成功しています。

資源大国だった日本の遺産:別子銅山

愛媛県には近代化の名残がたくさん残っています。そのひとつが別子銅山です。もともと日本にはたくさんの鉱脈があり、国内では貨幣や大仏鋳造などで一定の需要がありました。しかし、銅鉱脈はなかなか見つかりません。その理由もあって、中国から大量の銅銭が輸入されました。時代が下って江戸時代に、足尾銅山や別子銅山の採掘がようやく始まっています。別子銅山は300年弱の期間にて70万トンの銅を産出しました。記録があるのは凄いことです。その銅山から、あの住友財閥が誕生しました。坑道は全長700キロメートル、掘って掘って、地中マイナス1000キロメートルまで掘り進みました。日本最深部です。佐渡の金山、石見の銀山、そして別子の銅山。日本を代表する金銀銅の産地です。採鉱からわずか7年で別子銅山は日本の産銅量の中心になり、年間製鋼量も世界一だったのではと言われました。住友グループはこの地元で多角化し、新居浜市をして日本初のコンビナート工業地帯へと変貌させていきます。

海賊業から造船業へ

愛媛県は造船業でも日本トップクラスです。今治造船の存在感が光ります。製塩業と全国への輸送という巨大な需要から、徐々に造船業が盛んになっていきました。海運の発達は、船の修理を必要とし、船の大工をたくさん育てました。これが造船業にとって重要な基礎なっています。これらの地にはもともと、しまなみ海道島嶼部で活躍した海賊村上氏の伝統があったことも寄与しているでしょう。能島や来島を拠点とした村上水軍のことです。中世期には瀬戸内海の覇権を握り、戦国武将の勢力図に大きな影響を与えました。彼らの活躍は好意的に語り継がれていますが、略奪を旨とする海賊ではなく、海上交通の安全を守った水先案内人という性格が強かったようです。

ちなみに、四国と本州とを結ぶ橋は三つあります。瀬戸大橋、明石海峡大橋(淡路島経由)、そしてしまなみ海道です。海道は70キロメートルにもなり、広島の尾道と愛媛の今治を結んでいます。海道ルート沿いの島には住民の数も多く、自転車路が整備されました。それもあってサイクリング聖地と言われています。

みかん王国:愛媛の進化

そうそう。愛媛と言えば、忘れてならないのは「みかん」。お土産には欠かせません。収穫量こそ、一位の座は和歌山県に譲っていますが、実は柑橘系での多角化(伊予柑・ポンカン・不知火)を進めていたのが愛媛県です。温暖な気候と、斜面の多い地形を利用し、江戸時代に始まったみかん栽培は長年日本一でした。これがそのまま愛媛ブランドのイメージとなりましたが、彼らの危機感を煽ったのはオレンジなどの輸入果物です。そこで品種開発を行い、天草・せとか・はるみ・紅まどんな・甘平等を創み、高級化を目指しました。具体的には、愛媛県の公式観光サイト【いよ観ネット】のご一読をお薦めします。非常にたくさんの品種があるのですね。

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香川用水が讃岐国復活の鍵

ここからは香川県です。日本で最も小さな県、そして全国で最後に誕生した県でもあります。愛媛県から独立し(1888年)、今日の四県がそろう「四国」になりました。ただ、古代も含めた江戸時代までの行政区分も四つです。讃岐国(香川県)、伊予国(愛媛県)、阿波国(徳島県)、土佐国(高知県)、すべて名称が変わっています。香川の県名は、高松が属していた郡の名称から採ったようです。ちなみに愛媛の県名は神話(古事記)に登場しています。「伊予の国を愛比売(えひめ)といひ」の記述が出てくるのです。さて、話を香川県に戻します。香川県の独立には大きなネックがありました。水です。雨が少なく、川もほとんどない。そのため、農業には、ため池や用水が欠かせませんでした。香川用水は、吉野川上流のダムから取水した、110キロメートルに及ぶ水路です。今日、香川水道使用量の半分を占める香川用水が完成したのは1978年のこと。この地域がいかに長年、水不足に悩んできたかが分かります。県内にはたくさんのため池もあります。最大のものは満濃池。日本国内で最大規模です。なんと、701年に造られたと記録されています。人造物のため池ですが、築造後たびたび決壊しました。治水はいずこでも厄介な課題ですね。これを解決した天才が、あの空海です。次は、真言密教の大家・空海の話をしましょう。彼が大陸で学んだ堤の修繕技術によって、満濃池の大改修を成功させています。

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中世の英雄・空海の残したもの

空海。別名「弘法大師」は、香川県の善通寺で生まれました。彼は遣唐使の一員として唐に渡ります(804年)。漢文の素養はもちろん、サンスクリット語も学び、正式に密教の秘法を伝授されました。わずか2年で日本に帰国し、真言宗の開祖となっています。語学に通じた彼は、様々な法典や知見を持ち帰り、みずからも筆の大家として知られます。「弘法も筆の誤り」のことわざが、意味じくも彼のすごさを示していますね。また彼は、土木技術家でもあり、温泉を掘り当てたり、治水に貢献したり、愛媛県では多数の湧き水が空海のおかげだとされています。そんな空海が今日に残したものとしては、四国88箇所を巡礼する「お遍路」でしょう。阿波から土佐、伊予を経て讃岐へと88の霊場を右回りに行く「順打ち」と、反時計回りの「逆打ち」があり、道が険しい逆打ちの方が功徳は三倍大きいのだそうです。全長1400キロメートル、修行の旅。弘法大師は今でも順打ちで回っていると説法されています。下記にお遍路の案内リンクを示しておきますので、ぜひチャレンジしてみてください。

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こんぴらさんの石段へようこそ

四国遍路の旅と並んで、こんぴら参りも有名です。江戸時代中期から、伊勢参りやこんぴら参りが大流行したのだそうです。こちらはお寺ではなく神社です。「さぬきのこんぴらさん」は、日本全国600の金刀比羅神社の総本宮にあたります。金刀比羅宮(ことひらぐう)と書き、当時は琴平神社と言われました。1368段の長い階段がその特徴です。主祭神は大物主神(おおものぬしのかみ)、国造りも担った海の神です。まんが解説などのサイトも色々あり、神話の世界は結構面白いです。昔、中国大陸の影響を受け、集落が徐々に小国家を形成していった九州や出雲、そして後に古代日本の中心となっていく大和(奈良)、これらの地域を結んだのが瀬戸内海でした。その交通路である香川に海の神が設置されたとしても不思議ではないでしょう。あと、琴平と言えば余談ですが、かつてはターミナル駅が四つもありました。最初の鉄道はもちろん国鉄で、明治22年に琴平駅が開業しています。それ以外では、坂出と、丸亀と、そして山手ルートで高松とを結ぶ鉄道も開業。いずれもお目当ては寺社参詣でした。しかし、戦争をはさんで、経営的にも成り立たなくなった路線は姿を消していきました。

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古代のハイウェイとは、瀬戸内海だった

古代の讃岐(香川)には、独立していた小国家があったようですが、その古墳の作りも徐々に、大和政権に習っていくみたいです。注目すべきは、讃岐独自の古墳形態「積石塚」古墳です。石清尾山古墳群と称せられる地域には、65基ほど在地的な古墳があります。ひと口に古墳と言っても時代区分があるのですね。今後は地方の時代ですから、地元独自のものを掘り下げていくのも楽しいでしょう。

四国の存在感をひときわ大きくするもの、それが瀬戸内海です。水があるところ、人はそこを移動しました。外洋と異なり、おとなしい内海は、古代の人々にとっての重要な高速道路でした。下記環境省のリンクにも示されていますが、瀬戸内海の海は非常に浅く、ひとたび(小)氷河期になれば、その大半が陸地になったようです。

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今日の時代は、車・トラックが物流のメインですから水(海や川)は逆に物流の妨げとなります。それを克服したのが、現代の架橋技術です。広島側(今治)にはしまなみ海道が、岡山側(坂出)には瀬戸大橋がかかり、見る者を驚かせてくれています。その規模の巨大さはもちろんのこと、(瀬戸大橋は鉄道を併用させている点で)ついに日本の主要四島すべてが(鉄道網)にてつながりました。その意義は決して小さくありません。

僕らは「丸亀」をよく知っている

四国には目下、350万人が住んでおられます。そのうち今回の旅程で大きな都市と言えば、松山と高松。それぞれ都市圏人口(周辺地通勤者)という概念で捉え直すと、合わせて150万人を抱えます。四国全体では人口減の難題を有しますが、この両都市圏はまだ成長余力をもっているかもしれません。話を香川に戻すと、四国最大の「高松都市圏」の優位性は突出しています。用水の問題を克服した高松は、起伏(地形的な成約)の少ない讃岐平野の利便性にも助けられ、その都市圏を拡大させています。上述した琴平や、空海の誕生した善通寺、そしてうどんチェーン店の名称でも全国区の知名度を得た丸亀。これらはいずれも高松都市圏に組み込まれています。ちなみに、丸亀製麺と言えば、はなまるうどんと並ぶ二強チェーンのひとつです。国内外合わせて1000店舗。ファミレスや牛丼に押され、一時斜陽化したうどん・そば市場でしたが、猛烈な巻き返しを図っています。そんな丸亀製麺ですら、攻めきれないのは本場・丸亀市の市場です。当の地元では、丸亀の名を冠しながら、しかも香川発祥ではない企業が讃岐うどんを名乗っている。さぞかし怒り心頭だと思いきや、当の丸亀市と同社との関係は良好のようです。創業者が丸亀を愛し、多額の寄付をし、成功後も地元とのつながりを深めている。そんな良質記事のリンクも添えておきます。

香川は「うどん」王国?いや、それだけじゃない

さて、そんな香川の魅力は、実は島嶼部にまで及んでいます。オリーブで知られる小豆島、アートで開花した直島。この二つは行政区分上、香川県に属し、毎日数便の船で、岡山と香川とにつながっています。小豆島はそうめんでも有名です。香川県のキャッチコピーには、「うどん県。それだけじゃない香川県」とありますが、その意図には、小豆島のそうめんもあれば、徳島との県境に見られるそば地域もあるようです。テレビでは、うどん県に改名するぞという巧みな宣伝技法(解説記事へのリンク)によって、多くの露出がなされました。かつては全国最下位だった知名度も、ここに来て大きく上昇中です。比較的新しい観光資源としては、瀬戸内とアートというコラボがあります。

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瀬戸内アートが大発展

インスタ映えが話題になる時代、直島のデザインアートはSNS上で大きな話題を呼び、海外からの注目も集めています。今日でこそ、彼らは「勝ち組」となっていますが、その歴史は結構大変だったようです。島に降りると、いきなり大きなてんとう虫?いえ、かぼちゃのお出迎えです。(見るからに)あの草間彌生さんの作品ですね。そこから、地中美術館やベネッセハウスなどを泊りがけで回ってみると、ゆっくりしたアートな時間を堪能できると思います。ベネッセとは、あの進研ゼミで有名なベネッセです。建築そのものを、美術館にし仕立ててしまった趣向も、他とはまったく違う楽しみ方だと思います。建物は安藤忠雄さんの設計(作品)です。直島は、とにかく島全体にアート作品が散らばっていて、「聖地」と言われるだけの見応えがあります。もともとそんなに観光客のいなかった島ですが、アートに振り切った途端、観光客は年々うなぎのぼりに伸びました。その原動力は、上述した岡山県出身の企業・ベネッセです。常に子どもたちのことを考えていた同社・創業者の思いが結実し、直島の観光客は非常に若い人たちが多いようです。

さてデザインセンスの欠片もない僕みたいな人間ですが、この島の歴史を紐解くと、もっと面白い事実が垣間見えました。直島は、他の多くの島嶼部と同様、かつては産業基盤のない貧しい島でした。戦前にはやむを得ず、銅の精錬所を受け入れる決断をします。四国には、上掲した別子銅山があり、精錬作業はどこも嫌がっていた経緯があり、直島はそこに手を挙げたのです。しかし、銅の精錬で出てくる亜硫酸ガスの問題はやっぱり深刻で、塩害が木々を枯らしてしまいました。そんな環境と産業とのバランスに悩む直島に、第三の選択肢が示されたのは1988年のことです。バブルの余波を受けながらも、着実にアートの試みを進化させてきたこのムーブは、瀬戸内海の他の島にも広がり、ついには瀬戸内アートとして開花時期を迎えています。それは、この試みに身を投じた方々にとって、非常に長い道のりだったのかもしれません。

天空の鏡:父母ヶ浜

最後に、この旅を美しい光景で締めたいと思います。香川県の新しい観光地として最近人気を集めている三豊市です。インスタグラムで「父母ヶ浜(ちちぶがはま)」のタグを検索すると、同市砂浜のたくさんの見事な作品(写真)が表示されます。西に面して1キロメートルも続く遠浅の砂浜。潮が引いた時間帯(干潮時)、砂浜には潮溜まりができます。もし風のない日であれば、そこには波が立つこともなく、美しい空が水面に映し出されます。干潮が夕日の時間と重なれば、黒い人影を中央に、空と水面に鮮やかな色が映えることになります。南米ボリビアのウユニ塩湖が最も有名なことから、父母ヶ浜は日本のウユニ塩湖という言われ方をしています。香川は確かに、うどんだけではないですね。神話の時代の道後温泉から始まったこの旅は、香川が誇る絶景でひとまず終わりとします。

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photo by Ann Lee:父母ヶ浜


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