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【自己分析】大学院中退します。【人生の肥やしへと昇華させる】

 2021年11月1日をもって、大学院を中退(正確には休学)することになった。これからの道はなにも決まってない。自分でも、これからどうなっていくかわかっていない。
 ずっと敷かれてきたレールに乗って走ってきたのに、走れなくなってしまった故障品。今回は自分のこれまでの23年間を振り返りながら自分の人格形成への影響が大きかった要因を探ってみる。
 完全に自分語りだし自分のための記事だし、すごく長文だけど、自分の人生に違和感を感じている人や、どうしても今の現状から抜け出したいと悩んでいる人にとって考えるきっかけになれば嬉しい。

1.幼稚園時代

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 自分は兵庫県の海の近い街で生まれ育った。家には父・母・姉・兄・自分という5人で暮らしていた。

 自分の記憶があるのは幼稚園からで、下半身を露出させて笑いをとっては先生に怒られていた。

 女の子から手紙をもらったが、年長にも関わらず文字が読めなくて悔しく思った記憶が強く残っている。

 休みの日には父と兄と自分と、たまに近所の家族ぐるみで仲良くしていたお兄ちゃんらとで海に行って、岩と岩の間に手を突っ込んで貝やらウニやらタコやらをとっていた。思い返すと常に年上の人達と関わってきていて、この頃から年上の人と関わることが好きだったんだなと気づく。

2.小学校時代

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 ひと学年40人くらいの学校ですくすくと育っていった。兵庫県で特有のトライやるウィークでは家から一番近いローソンでお世話になった。

 1年生のとき、兄が所属していたサッカー部に入れさせられたが、兄がやめると同時に自分も辞めた。1年間だけサッカー部に所属した。

 2年生以降はオタク化が進行していった。趣味はゲームとアニメ。ゲームは特に、デュエル・マスターズ(カードゲーム)とモンスターハンターシリーズは没頭した。兄や近所のお兄ちゃんらと頻繁に遊んでいたら、自動的に学年で一番強くなっていた。デュエル・マスターズにおいてはお金持ちの友達に弱いカードでも強いように見せかけ高値で売って、お小遣いにしたりしていた。

 アニメは、ケーブルテレビでキッズステーションとアニマックスを行き来しながらずっと見ていた。両方でおもしろいアニメをしていなかったら、スペースシャワーTVやMUSIC ON! TVで最新の音楽をMV付きで見て歌ったりしていた。ゴールデンタイムには家族でバラエティー番組を見たりドラマをみたりしていて、生粋のテレビっ子だった。高学年になって、BUMP OF CHICKENに出会い、TSUTAYAで借りてきたCDをウォークマンに取り込んでは聞きふけっていた。「やさしいひとになりたいなあ」と漠然と思っていた。その頃から仮面をつけながら人と接することを知り、自然体でなくなったような感覚がある。手をポケットに入れて生活していた。

 勉強面においては、5年生までは何もせず成績も鳴かず飛ばずだったと思う。だけど、6年生になって担任の先生が、”毎日、やった勉強の成果を提出させる”という宿題を出すようになり、これがきっかけで勉強を頑張るようになった。父親と「テストで〇〇点以上取ったら△△円ちょうだい!」というような交渉もするようになって、モチベーションを保っていた。欲しいものは絶えずあったからずっとお金にはがめつかった。ちびっこは何にだって興味を持つ。

 授業で一番印象的に残っているのは6年生の時の理科で、クラスを6班に分けてそれぞれで溶液を作成して、その6つの溶液に先生が番号をつけて、どれがどれだかわからない状態にした中で、班員と話し合って指示薬や加熱を用いて、どれが何の溶液かを当てようというものであった。自分が立てた計画を先生に提出すると、みんなの前ですごく褒められて一番全問正解に近いと言われた。化学を得意としていることを自覚できた初めての経験だった。

 二分の一成人式(10歳)では自分の将来の夢を発表した。父の”楽そうで給料が良さそうな仕事っぷり”に憧れて、「研究者になりたい」と発表して、それ以降自分は研究者になるんだと勝手に思いこんでいた。

3.中学校時代

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 中学校での生活はあまりいい思い出もなく、記憶が薄い。

 ゲームが強い近所のお兄ちゃんの影響でテニス部に入ることにした。弱小チームでサボりながらも3年間やり続けた。部活のメンバーの中でも、面白い人だけを集めてひたすらに爆笑していた。陰キャグループの中のリーダー的な存在だった。

 その中にロックバンドについて詳しい人がいて、その人の影響を受けてクリープハイプやサカナクション,KANA-BOONなどの邦ロックと呼ばれるジャンルを聴き漁っていた。特に、クリープハイプの言葉遊びが自分に刺さって好きになった。思春期真っ只中の自分にとって歌詞に出てくる知らない新しい刺激的なワードに心惹かれたのかもしれない。中学校を卒業した直後に、初めて音楽ライブに行ったが、それもクリープハイプのワンマンライブだった。今でも好きだ。

 中3の6月に部活動が終わって、公立高校の中で1番近いところが市内では1番賢いところだったので、そこに入るために勉強を頑張った。このときも父との交渉でお小遣い稼ぎをしながらモチベーションを保っていた。学習塾にも通わせてもらい、ギリギリで志望校に合格できた。

4.高校時代

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 高校生活は自分にとって華だった。

 高校1年生の最初は、知らない人が多くて周りが凄く賢く見えて、人見知りを発揮してしまい、ぼっちだった。当時はまっていたパズドラ(スマホゲーム)を一人でこそこそやって、それ以外は机に伏せて寝ていた。一番最初の実力テストでは、学年で相当下位だったことを覚えている。

 部活動は、家族のみんなが経験者であるバレーボール部に入ることにした。兄が直属のOBということもあり、先輩からは可愛がられていた。当時、ハイキュー(週刊少年ジャンプの漫画)が流行っていたからか、たくさんの同期がいた。そこは本当にゆるく、一切のいじめもなく当時の自分にとっては理想的な空間だった。陰キャ陽キャの隔たりもなく、優しくバカ笑いもできる仲間たちだったから、本当に周りに恵まれたと思う。

 バレーボール部で徐々に友だちができ始め、仲良くなりだしてからの高校生活は非常に楽しかった。最初のころは学校の成績が非常に悪く、高校1年生の夏休み明けのテストで、自分にとってもショックを受けるような成績を取ってしまった。これをきっかけに「1日3時間計画」と称して、部活帰りに必ず塾の自習室に通うようにして勉強も頑張っていた。

 高校2年のときに文理選択があったけれど、化学と英語が比較的得意で、国語が苦手だった自分はなにの迷いもなく理系を選択した。このときも”将来は研究者になる”という気持ちは続いていたから当然の選択だった。高校3年生になって、化学の授業で有機化学を扱うようになってからは授業が楽しくて仕方なかった。問題を解いてわかることが非常に楽しく感じてひたすら化学の勉強をしていたら学内のテストでは常に1位を取り続けることができた。これは自分にとって、考えることや学ぶことが楽しいと感じたきっかけとなった。数学が得意な友達や物理が得意な友達とすごく仲良くなって、お互い問題を出し合って楽しみながら勉強していた(本当に周りに恵まれていたと思う)。

 大学受験では、金銭面の問題で国公立大学に行ってほしいという親の願いのもと前期・中期・後期すべての日程を受けた。結果としては前期・後期日程では落ちてしまい、ほとんど滑り止めだった中期日程でのみ合格してそこに通うことになった。学校での化学の授業が楽しかったという理由で、理学部で化学の内容を学べる学部に入った。今となってはそこまで引きずっていないが、当時の自分にとっては本当に悲しくて一番の挫折経験となった。このことから学歴コンプレックスをいだきながら大学生活を送ることとなった。


ここからは、大学編になるが学年ごとにまとめることが難しく感じたので、手を出したものに関しての振り返りまとめていく。


5.ジャズ研究会(大学学部1年)

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 一番最初の取っ掛かりとして、サークルについて振り返ってみる。「坂道のアポロン」というアニメが好きだったことを理由に、ジャズ研究会に所属した。当時、やったことのある楽器といえばリコーダーと、小学校の音楽会でのカウベルくらいしかなかったにも関わらず、全くの初心者でコントラバスを担当していた。ずっと音楽を聞くことは好きで、特にベースがかっこいいと思っていたから一生懸命に練習した。でも、聞くことと実際に弾くことは別だった。周りが音楽経験者だらけの中で、楽譜もろくに読めない状態で耳コピから音楽理論まで勉強していき、ソロパートまで作っていくことは労力がかかりすぎた。そんな中で、同じところを何度も何度も聞いて練習することが次第に苦行に感じるようになった。ジャズは聞く分には、ソロパートでは体がうねるくらい好きだし、ベースはいつだって耳で追ってるくらいに好きだった。でも、自分は聞くことが好きであって弾くことはまた別なんだなと感じた。弾くことは好きじゃなかった。

 ここでの最大の学びは、好きと得意は別物だし、好きの中でも”好きな行動”を軸にしてやることを見つけないと楽しみにくいと実感できたことだと思う。自分は幼い頃から音楽を聞くことは好きだったけど、プレイヤー側になったことはなく、演奏することは好きになれなかった。

 自分がこれまでやってきたことは、一生懸命努力していれば周りから褒められた。もしくは、感謝されてきた。しかし、ジャズという敷居の高いものでかつ、コントラバスという聞き取りにくいパートをやっていたことで、演奏会を観に来てくれた友達や両親からすると、「よくわからない」となっていた。褒められるためにやっているわけではないが、やっていることが完全に独りよがりで今後の役に立つとも思えないで、なんのためにやっているのかわからなくなってしまった。2年生になると、理学部はキャンパスが離れたところに移動するということもきっかけにして、ジャズ研究会は2年生の5月頃に辞めた。

6.塾講師のアルバイト(大学学部1年~3年)

チームラボ

 高校を卒業してすぐに、兄の紹介で個別の塾講師のアルバイトを始めた。自分は主に高校受験生と大学受験生を見ることになった。どの教材を使うかや、どんな宿題を出すか、何をやらすかまですべての裁量権を与えられていたので最初は戸惑った。個別の授業なのにすごく眠たそうにして集中してくれなかったり、前回に出した宿題を全然やって来てくれなかったりしてどうしたもんかと思っていた。しかし、生徒と仲良くなってからは、雑談をしながらも集中して授業を受けてくれ、宿題も守ってくれるようになった。しっかり授業を受けてやる気にすることができれば、後はそのやる気を持続させることで、きちんとよい成績を取って勉強ができるようになり、自分が見た子は、高校受験の生徒は数えていないが、大学受験生の生徒は12/13人が志望校に合格してくれた。もちろん、勉強面におけるサポートのために自分で小テストを作成して頑張ってくれるように促したりの工夫もしていた。

 自分が塾講師をやりながら得られた一番の学びは、”人は話すことのほうが好きだし、聞いてくれる人には心を開きやすい”と感じたことだと思う。生徒と仲良くなるために、完全に聞く側に徹して、相手自身の話をしてもらい、たくさん共感して、聞いていることを強調するために相手の話を要約しながら相槌を返した。より気持ち良く話してくれるように努めた。すると、生徒が心を開いてくれて、信頼を得て、宿題を守ってくれるようになったし授業も集中して取り組んでくれた。信頼を獲得するためには聞き手側に回ることが大切。

 自分はめちゃくちゃに明るい人と会話することに苦手意識を持っていたけど、少なくとも1:1の会話においては相手を楽しませて仲良くなる自信を身につけることができた。

7.ピザ配達のアルバイト(大学学部3年)

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 大学3年生の初めにお金に困ることがあり、塾講師でのアルバイトだけでは足りなくなったので、”楽に稼げそう”という理由だけで自宅近くのピザ配達のアルバイトを掛け持ちで始めた。結果としては、相当楽だったしシフトもたくさん入れてくれて稼ぐことができた。電話対応などの接客における、一般的な敬語の使い方を学べたことはよかった。プラスで得られたものとしては、現在地と目的地がわかれば地図を覚えることが得意になったくらい。

 たくさんの時間を費やした割に得られたものは少なくて、時間の切り売りをしている感覚が強かった。

8.ボルダリング(大学学部1年~)

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 高校の時にできた1番の友だち(たまちゃん)に、大学受験が終わった3月に誘われたことをきっかけに始めた。その時は、ノリと勢いで道具を買い揃えてやっていた。でも、大学生活が始まっていろいろなことに手を出しすぎて忙しかったこともあり、モチベーションが維持できずにすぐにやめてしまった。

 なんやかんやあって、ボルダリング中心の生活を送ったり、サボったりを繰り返しながらここまで来ているが、ボルダリングは本当に魅力的な趣味なので、一生続けるんだろうなと感じている。

 ボルダリングによって、趣味のコミュニティを築くきっかけにもなってくれたし、様々な人と関わることができた。遊びながら運動することができて、体格も良くなって自信を持てるようにもなった。忙しさにより精神的に辛くなったときも、ボルダリングジムにいる時だけは、ボルダリングに集中できて心休まることができた。達成感を大いに感じることができて楽しめるので、遊びとして続けられることもあり、これ以上によい運動はないのでは、、と感じている。心から好きと思える趣味に出会えて本当に良かった。

9.カメラ(大学学部1年~)

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 大学入学祝いで親と祖母から合計10万円頂いたので、なにか新しい趣味でも始めてみようと思って、なんとなく一眼レフカメラを購入した。カメラについて身近な人で誰も詳しくないし、今でもなんで自分がカメラを買いたいと思ったのかは謎なんだけど、これのおかげで自分は外へ出かけるきっかけを得られた。

 最初は写真の教本を買って、真似しながら基本的なことを理解していった。少し専門的な話になるが、最初にダブルズームレンズキットで購入していたから、全然教本通りのボケ感を再現できずに面白くなかった。でも、単焦点レンズを購入してからは”っぽい”写真が撮れるようになって楽しくなって、三脚とかレリーズも購入して遊んでいた。

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 次第にカメラが自分にとってのアイデンティティのようになっていった。
ジャズ研究会でも各行事における写真は全部自分が担当したし、友達と遊んだときに撮った写真がプロフィール画像に使われたりしたら大いに喜んだ。ただ、自分はどんな写真が好きなのか全然決まっていなくて、ただただ機械ありきで撮っていた気がする。

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 大学3年生のときに、岩倉しおり(iwakurashiori)さんという、初めて自分が直感的にすごい好きと感じたフォトグラファーを見つけて、その人についてたくさん調べて、岩倉さんが使っているものとほとんど同じフィルムカメラを購入した。岩倉さんが行っている場所に行ってみたり、同じような構図で写真を撮ってみたり、どうしたら同じような色味を再現できるかなど、全力で真似をしようとした。すごく楽しかった。

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 大学4年生になって、今まで使っていたエントリーモデルのデジタルカメラでは不満点がたくさん出てきたので新しいデジタルカメラがほしいとなったときに、岩倉さんをタイアップとして起用したsonyさんのミラーレス一眼を購入した。楽しめる幅が広がった。

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 カメラは自分の中で一番、日常的に考えている時間が長いものだから、たくさん得られることがあったと思う。その中でも一番大きかったことは、自分の特徴づけができたことだと思う。今までは、なんとなくでしか生きていなかった。しかし、カメラをきっかけに、自分が何かを提供する側に回ることができたし、そうしていく中で自分の好きを見つけて価値観を形成していくことができたことは、本当に良かったと思う。

自分はきれいな景色の中で人が写っている写真が好きだ。
その人が自分の中で大切な人であればあるほど輝いて見える。
楽しいなと感じたときに切り取るような。
人の魅力を引き出せるような写真を撮っていきたい。

インスタグラムを見ていると、これを実現している人はたくさんいる。
だから、いっぱい努力して、自分の持ち味を活かしながら写真を撮っていきたいなあ。。

10.勉強面について(大学学部1-4年)

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 ここが一番自分にとって大切なところであり、問題点。

 まず、学部1-3年生においては大学受験に失敗してハングリー精神をずっと持ちながら、大学院入試で自分が行きたいところに行けるように常に化学に関する授業は集中して受けていた。大学には実家から通っていたので、通学時間が長く、化学の授業がある日は行きは予習・帰りは復習をできるだけしていた。そのおかげか、大学で必要な単位はこの間に取り終えたし、化学だけの成績でいうとすべてのテストで必ず80点以上取った。

 大学4年生になって、第一希望の研究室に配属されたが、新型コロナウイルスの影響で研究室にはなかなか行けない状態が続いた。そんな中で、他大学で興味のある研究室を見つけて、院試を受けて、無事に合格することができた。

 素直に嬉しかった。上京もできるし、周りのレベルも格段に上がるだろうし、研究も楽しそうだと思ってた。

 院試が終わってすぐに、本格的に学部の研究室が再開した。そこの内容は自分にとってワクワクするし、世界的にも有名な、最先端の分析装置を使うので頑張ろうと思っていた。

 しかし、本当のところではあまり頑張れなかったように思う。自分の心のどこかで、院での研究とは無関係だから半年間適当に乗り越えたら終わりと思っていたからだと考えていた。

11.勉強面について(大学院修士1年)

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 ”新しい分野での楽しそうな内容の研究を頑張ろう”というモチベーションで上京してきて、周りに食らいつきながら努力をしていった。しかし、その努力はその環境にいる人達にとって当たり前のようになっていて辛かった。今までの中で、一番時間を割いているにもかかわらず結果が伴わないでいた。周りとの比較での劣等感と、自分が選択を間違えたのではないかという将来への不安からカウンセリングを受けるようになり、そのカウンセリングの先生の紹介で精神科の先生にも定期的に診てもらうようになった。

 研究は常にわからないことへのアプローチで、結果が出ず、役に立つとしても20年以上先のことで、楽しいと思うことができなかった。次第に自分は研究者になりたいと思えなくなり、文系就職をしようと考えるようになった。すると、自分の多くの時間を割いて研究活動をしていることが、時間の無駄に感じられるようになって、2021年11月1日からしばらく休むことにした。

12.現在 何もない人

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 幼い頃からのずっと追ってきた夢が、ただの幻想に終わってしまった。

 ただ、ポジティブに考えるとすれば、化学の勉強が思考の基礎にはなったのかなと捉えることができる。院試には合格しているから大学の学部レベルまでの化学の知識は身についているっていうのもそうだけど、なによりも膨大な勉強量のおかげで、論理的な考え方、勉強による効果など、勉強という過程そのものを学習できた。結果、自分の頭で考えられるようになって、自分の意見に自信を持てるようになった。

13.総括

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 こうして振り返ってみると、そもそも自分が研究者を志した理由は父親の”楽そうで給料が良さそうな仕事っぷり”に憧れた結果だった。自分が化学の研究者になると思い込んでいたからなのか、常に問題を解くことはできた。そして、勉強をしていると周りからの評価を得られたし、なにより”わかった!”という体験が楽しかった。しかし、実際に研究を始めてみると、”わかった!”と感じることがめったになく、思ったより身が入らないで楽しめなかった。研究は多大なる時間を取ってくる割に結果が何も得られていないように感じ、本当に好きじゃないと難しいと感じた。たとえ、社会に出て企業の研究職に就いて、”楽で給料が良い”仕事ができたとしても、自分には楽しめる自信がなかった。

 では、なにができれば自分は楽しむことができるのだろう。

 ボルダリングは周りの人との交流もできるし、達成感を得られたり身体が鍛えられて自己肯定感も高まるし、集中して取り組むことができるので楽しい。

 カメラは自分の好きを表現できるし、撮られた人も喜んでくれる。人が喜んでくれるとすごく嬉しくなる。

 塾講師でのアルバイトは、一人一人と向き合って仲良くなり勉強を教えていくことは楽しかった。







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 自分は人が好きだと思う。人との関わり合いが好き。一人一人と深い関わりを持って、良い影響を与えることができると嬉しく感じる。自分の身近にいる人や、目的を持って行動している人のサポートをしたりして、喜んでくれたり満足してくれているということを肌で感じることができると、エネルギーが持続する。自分がやっていることが、ある程度の短期スパンで数値化されたり言語化されたりしてくれるとスッキリする。

 人に良い影響を与えることができて、当人がより幸せな人生を送ってもらうことが、自分にとっての幸せ。そうすると、幸せの定義は人それぞれだから一様に言うことはできないが、多くの人が、”自分がしたいと思ったことをできる状態や我慢がない状態,自分の価値観を大切にしてやりたいことができる状態”であるようにしたい。自分で選択できる状態がより良い人生だとすると、その障害になるのが2つ考えられる。1つ目が経済面で、2つ目が自分で考えて調べる力。このどちらか、あるいは両方を支えることができ、数値化されたり言語化されて成果がわかると、自分も楽しめるのかなと感じている。

 これを叶えることができる仕事をしたいと感じているので、自分は研究者の道ではないと感じて、とりあえず休学を選んだ。

 これからは、インターンシップに参加させてもらうなどして自分の進路を再考しながら生計を立てられたらと考えている。明確なビジョンがまだ見えていないのだけれど、いつか、自分と関わってくれている人みんなが幸せに感じられるように努力を重ねたい。。。

人に価値(幸せ)を提供して、自分の人生を全力で楽しみたい。


以上が、自分としての結論。何者でもない自分の記録。自分のための記録。
この記事が読者にとってなにか、考える切っ掛けになってくれたら嬉しい。

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