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ヨーロッパ留学して見えた、第三世界

イタリアに住んでいます、なう!

そういえば、去年の9月からイタリアにある大学院に留学しています。今更過ぎるというか、完全に書くタイミングを逃してしまいました。いやー、人生は本当に何が起こるか分かりませんね。笑 留学先はミラノ工科大学 (Politecnico di Milano 通称 Polimi: ポリミ) という、建築やデザイン、工学が有名な大学です。東大、慶應、千葉大、九大などと提携を結んでいるようですが、元が文系の人でここに進学する人は少ない模様。普通に聞くと「え?工科大学?!」となりそうですが、私はだからこそが面白いと思っています。なぜなら本来は文系も理系も完全に分ける必要がなく、それ二つを相互に学んでこそ、球体のように360°から物事を捉えられるようになると考えるからです。

ミラノ工科大での私の専門は経営全般ですが、特にデザイン経営工学を繋ぐ「デザインマネジメント」やブランディングやリテールのサプライチェーンにも通ずる「ラグジュアリーマネジメント」など比較的広い分野で学びを深めています。日本でもよく叫ばれているビジネスとデザイン、アートを横断する考え方でも、イタリアは造詣が深い国です。

デザインマネジメントについては、日本でもちょこちょこ話題には出てきているみたいですが、アカデミック領域でこの内容を学べる学校は日本に少なく、事例のほとんどは欧米という状況です。またそれを専門で学んだという人もほぼいないので、そもそもこの領域を学問として認知できる人も限られています。それくらいニッチですが、私はそれが好きです。

ラグジュアリーマネジメントについても同じで、むしろこちらの方がよりニッチではないかと思います。というのも、そもそもヨーロッパが始まりのラグジュアリーについて、学術的に学べる場が日本にはないからです。かろうじて専門学校があったとしても、実践的で学術的に学べる場所はまだ日本にはないように思います。ミラノ工科大学については、イタリア/ ラグジュアリーについて造詣の深い事で有名な安西さんの本でも紹介されています。

このラグジュアリー分野はブランド戦略とも関わりは深く、事業がラグジュアリー業界であるかに関係なく、日本が本来持つポテンシャルが発揮していくために必要な考え方が詰まっています。現在日本企業がグローバル展開を考える際に抜け落ちていたり、苦手にしている付加価値を高めていく活動や戦略。ラグジュアリーを考える事で、広くビジネスに活かしていく事ができると考えています。


さてさて、さっそく本編に入る前から長くなってしまっていますが、お決まりの海外留学ブログとして受験準備から、引っ越して早々の生活の様子を書く事なく、日々の生活をSNS、Instagram、Facebookなどを中心に知り合いに発信するくらいだったので、より多くに届けるべき体験や発見をお伝えするべく、今回勢いに任せて書いてみています。笑

海外大学院留学したい人たちを繋ぐ

書くネタが毎日沢山あり過ぎますが、その多くは私のFacebookやInstagramの投稿にありますので、興味があれば覗いてみてください。海外大学院に留学したい人を支援するコミュニティもFacebookグループを作り、細々と投稿していたり。現在絶賛留学してる人、過去にしてた人、これからしたい人などを繋げたら面白いし、お互い有益な繋がりになるだろうと呼び掛けていたら、友人を含めなんと今や100人程の方々が集まっていました。笑 以下のリンク、もしくは「海外 大学院 留学 支援 ネットワーク」のようなキーワード検索をFacebookでしてもらうと出てくると思います。

これを作ろうと思ったのも、まず海外大学院に行く時にMBA留学コミュニティはあっても、それ以外のデザインスクール、アートスクール、その他の修士号のコミュニティはあまり見かけなかった事と、社費ではなく私費で留学する人たちの孤独、情報収集の大変さを私自身が感じたからでした。受験はタイムラインがある中での情報戦でもあり、団体で挑むに限りますね。予備校的発想です。そのコミュニティ版。

日本から海外へ出ていく人たちの現状

私が大学院を最初に考えていたのは大学生の頃でした。周りの先輩で海外含め院に進学している女性の先輩もなんだかんだでチラホラいました。当時は意識してなかったのですが、ロンドン大学でビジネスを学んでいたり、サンディエゴに行ったりする人がいたり。その後、社会人になり、再びアメリカからの留学生で大学卒業後はフランスのビジネススクールに行くんだよという人に出会い、そこでまた意識し始めました。

それで社会人2年目くらいに参加した、女性で海外MBAを志す人たちが集うイベントにも巡り合い、最初の衝撃を受けました。Google Japanが会場になり、スタンフォードやハーバードなどに留学された女性が登壇されていました。そこで一番の衝撃だったのは、そこに登壇されていた方全てが家庭もキャリアも学位も共立されていた事でした。「二兎追うもののみが二兎を得る」という発見でした。中には、パートナーを連れてスタンフォードにMBA留学した女性もいました。

その会でもらったコロンビア大に留学された女性の体験記の本を読み、イベントに来ていたアゴスという海外大受験予備校の名前。そこで面談をして驚いた事は、年々MBA受験に必要なGMATの受験者が減り、人口では日本よりも少ない韓国の方が約2倍も多くGMATを受験しているという数字でした。GMATの受験数 > 実際にMBA留学をする人なので、MBA以外で海外大学院に行く人がいたとしても、そこまで爆発的に大きい数字にはならないはずなので、この統計は今後の日本のグローバルな存在感を現実的に考える必要がある事を教えてくれる、大変良い機会でした。と同時に、危機感を覚えたのも事実です。

こちらの情報は少し古い2013年時点のものですが、それにしても全盛期と比べる減少している事が窺えます。そしてこの男女比!!

また、別の衝撃的な事実として、日本から海外の大学院に行く男女比は8:2、社費と私費で行く人の割合は7:3。つまり、女性で社費ではなく私費で海外大学院に進学する人は全体の6%と、かなりの少数派であるという事が分かりました。

→ もし日本でGMATを受験する人がグラフにもあるように3,000人だったと仮定すると、その3割と少しがその年に実際に留学したとして分かりやすく1,000人としてみる。

→ この仮定では200人が女性で、60人が私費で海外MBAに留学している事となる。

→ MBAには社歴が2-3年必要なのである事と、日本人女性で一番海外留学をしていそうな年齢を30代までと仮定し、25-39歳での日本人女性の人口を割り出してみると、おおよそ1200万人ほど。

→ 60 / 12,000,000 = 5/1,000,000 = 1/ 200,000 = 20万人に1人 (*0.0005%) 

ここでの私の反応: 「Wow wow, これは流石に少な過ぎるのでは…??」

(*2013年度のGMAT受験者数のみしか分からないでため、より近い2010年度の人口データを使用して仮定しています。ゆえに、現状との乖離がある可能性があり、大凡の概算で数字を出しています。万一間違っていたり、最新データをご存知の方がいたらお知らせください!!)

会社員ではなく自分自身で事業を運営しているケースというのも、本当にほぼいない(レアポケモンのように貴重)らしく、貴重な多様性として海外では評価してくれる要素にもなり得ると背中を押された事も驚きでした。私の反応としては嬉しいというよりも、むしろ「え…?そんなにいないの?」という反応です。

そもそもですが、日本国内の大学院に進学する人でさえも、男性で全体の14.8%、女性ではたったの5.8%と少ないのが日本の現実です。その中の女性で、且つ海外の大学院となれば限られてしまうのは分かりきった事ですが、それにしても先進国の水準と比較すると、最低レベルらしいのです。涙 2018年度は7.4万人の大学院入学者がいた模様(修士号) 男女比は約7:3との事なので、2.2万人ほどの女性が大学院に進学している事になります。

海外大学院進学率、その男女比の謎

大学院の一歩手前の大学進学率であれば、男子が全体の56.3%、女子が50.1%が進学しており、ほとんど男女差がありません。大学でも同じ教育を受けているはずなのに、どうしてここまで差が出るのだろうと不思議でなりません。

海外大学院となれば語学の問題が出てくるのですが、日本の大学にある語学系の学部は圧倒的に女性が多いはずで、1:9でほぼ女子大状態という学校もありました。なのに、なぜ大学院進学となるとこんなにもグッと減ってしまうのでしょうか?そもそも大学院進学率なんてのも、日本では文系となればそう多くなく、大学側も早く就職してくれぃ!と就活を斡旋しているようにも感じます。

幸いな事に、私の周りにはちょくちょく海外大学院に進学する女性の友達がいて、ならば私もと思いやすい環境であったのは間違いありません。環境要因もあるとは思いますが、一方で経済的な年収格差による要因も多いように感じるのも事実です。

肩書きとしての学位の有無には興味はないのですが、家族や社会から特に学位を持つ事を期待される事も少ないがために、もしくは持つ事で寧ろ交際や結婚への阻害要因になると感じられてしまうものがあるとすれば、それは個人の選択の自由を奪ってしまっている事にもなり得ます。聡明な人が増える事で世の中にとって、間違いなくプラスになるはずです。そんな事を海外大学院への進学率の内訳を見て考えていました。

進学する女性比率が世界最下位?!

ここまで来て気になったので、女性と日本における高等教育についてのデータを調べてみる事にしました。痛々しい数字ばかりですが、これも未来のために目を逸らしてはいけない現状です。ぜひご覧ください。参考にしたのは以下の報告書です。

「女性の活躍推進に向けた高等教育の課題」
調査部 主任研究員 池本 美香 (2018)

https://www.jri.co.jp/MediaLibrary/file/report/jrireview/pdf/10385.pdf

“OECD諸国との比較で、わが国の女性の高等教育の現状を見ると、入学者に占める女性の割合は、短期高等教育機関ではOECD平均を上回るが、大学学部や大学院博士レベルではOECD諸国で最低である。”

初っ端から気になる事が書かれていました。つまり、短大や専門学校に行く女性の割合は高いけれど、四年大や大学院にまで進む女性の割合は*先進国の中で最下位なのだという事。

*OECDの加盟国一覧

EU加盟国(22か国)

ドイツ、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フィンランド、スウェーデン、オーストリア、デンマーク、スペイン、ポルトガル、ギリシャ、アイルランド、チェコ、ハンガリー、ポーランド、スロヴァキア、エストニア、スロベニア、ラトビア、リトアニア

その他(16か国)

日本、イギリス、アメリカ合衆国、カナダ、メキシコ、オーストラリア、ニュージーランド、スイス、ノルウェー、アイスランド、トルコ、韓国、チリ、イスラエル、コロンビア、コスタリカ

ここでの私の反応: 「え…、最下位?!」

これを見て、数字が低いのは日本の女性な大学進学を望んでいないからだ、と考えるのは間違いです。なぜなら、女性が学びたくても周りがそれを引き止めている、もしくは学ぶ事には利益がないという考えを無意識的に女性本人たちに刷り込んで事もあるからです。

女性が進学した際のコスパが世界最低?!

“OECDでは、各国の高等教育の私的収益を、高等教育の授業料、進学せずに就職した場合に得られたであろう機会費用、 進学したことによる生涯賃金の増加分などのデータをもとに、男女別に試算している。それによると、 わが国では高等教育を修了することによる女性の私的収益が、試算されたOECD諸国のなかで最も少なく、かつ男女の格差が最も大きくなっている。” 

その他気になったデータとして、女性が高学歴を持つ事によるメリットが世界でも最低クラスで少ないという統計が出ていました。この統計では、学歴を得るために費やしたコストと、その後学歴があるために得られた収益を比較しています。つまり、日本の女性にとって、進学するための費用対効果、つまりはコスパが悪い、メリットが少ないという統計結果でした。女性が高学歴を得る事がむしろマイナスにもなり得るという、なんとも由々しき固定概念がある中で、「女性の活躍をなんて謳っているのは本末転倒ではないでしょうか。なぜなら、女性が単に働けば良いではなく、かけた時間に対して女性が男性と同じように稼げるかどうかが肝であるからです。

女性が単に働けば良い訳ではない

大学を卒業した女性、その半数以上が非正規社員であるという事が読み取れます。

「女性に働く機会を!」いう言葉はよく耳にする言葉ですが、女性が単に働けば女性の社会進出に繋がるのかというと、それはまったく違うと考えます。この統計データから「大学を卒業しても、非正規社員として働く女性が半数以上」という事が分かりますが、これはいったいどういう事なのでしょうか。

- 働かずともやっていける / 家庭に入る事が求められ、または時間が取れず働く事ができなかった
- 仕事を見つけられなかった
- 正社員の仕事に就けなかった
- 家庭があり、働く時間を減らさざるを得なくなり、必然的に非正規社員/ パートになった

いずれの理由であったとしても、働きたいと考えた時に女性がありつける職の幅、賃金格差は顕著であり、そもそも職業スキルと賃金の格差を埋めていく支援がなければ、女性が職にありつけたとしても時間に対しての費用対効果が合わずに、働かない方がマシという結果にもなり兼ねません。というわけで、女性が求めた時に女性が男性と同じように稼げるような選択肢がある状況こそが、本当の意味での女性の活躍なのではないでしょうか。

(ここで留意したいのは、女性が働きたいと思った時にという事です。家事と子育てという、報酬を受け取る事なく働く女性も多くいますし、稼ぐ額が大きいから偉いなんていうのは間違っています。稼いでいるかに関わらずに個々が尊重される考え方が必要です。)


“政府は「子育て安心プラン」で女性の就 業率80%に対応できる受け皿整備を掲げるが、それで就業率が上がったとしても、低賃金の職に就く女 性が増えることになれば、男女間賃金格差は縮まらず、国全体の生産性も上がらない”

 “政府は女性の活躍推進を政策目標として掲げているものの、そこで提示されるメニューは、保育所や 放課後児童クラブの整備、育児休業制度の拡充など、子育てと仕事の両立支援をねらいとしたものが中心で、女性の職業能力の習得および向上についての視点は手薄である。”

日本の現状: 教育に関する男女別統計により、政策効果が検証されていない。
→ ”文部科学省の全国学力・学習状況調査では、男女別の学力の状況が一度も公表されていない。女性の活躍推進に向けては、就業率ばかりが注目されるが、女性の学力や進学率、高等教育修了者の賃金水準など、教育の現状に関するデータを積極的に公表し、政策の改善を図るべきである。”


ヨーロッパ目線で見渡す世界

さて、海外と言うとどこを思い浮かべるでしょうか。アメリカを初めとした英語圏は印象深く、留学先としても人気です。では、ヨーロッパはどうでしょうか。このエリアに初めて降り立ったのは私が20歳の頃でした。当時はノルウェーという北欧の国に約一年間留学をしていました。その際にまず感じた事は「ヨーロッパは第三世界」だという事。それくらい私にとっては真新しく、アメリカにはない価値観が広がっていました。物静かな人もいれば、社交的な人もいれば、出会った事のないような国々から来た人も行き交うエリアで、英語ではない外国語に触れたのも面白く、第二言語の英語でお互いに話す事は心地良くもありました。

それからまた年数を経て、当時の学生時代には見れなかった社会人としての目線を持って帰ってきたヨーロッパの地。今回はラテン系のイタリアという事もあり、これまた異なる環境です。今回はここでの日々の中で学んだ事をいかに綴っていきたいと思います。

東洋と西洋の目線

日本にいるとあまり意識しないのですが、広い世界からすると私たちは東洋のアジア人として固有の文化とアイデンティティを持っています。ヨーロッパ(少なくともイタリア)に来てから改めて思った事は、海外にいるからといって皆んながグローバルという訳ではないという事です。

地球を球体として360°見渡せる人はヨーロッパでもそうおらず、アジアと欧米を横断していたり、現地の人たちの価値観を汲み取り、チームとして一緒に動かせていける事などは、貴重な少数派である事が分かりました。

私たちが西洋に触れてカルチャーショックを受けるように、欧米でも東洋を知り、カルチャーショックを受ける事は多くあるはずです。そこから、違いを受け入れていける、適用していける事は思っているよりも難しく、心地悪さや痛みさえも伴っていき、多くの場合は忍耐と繰り返していく事による慣れと受容し、自らが変化していく姿勢が必要です。

美しい英語は要らない?

また、非英語圏(特にイタリアやスペイン、フランスなどの英語の浸透率がそう高くない国)だと、当たり前ですがネイティブではない英語話者である事がデフォルトの環境にあります。私が一番驚いたのは、日本のように現地人にも英語を練習したい人/ 国際交流をしたい人がいて、私が話す英語をとにかく褒めてくれる事でした。

ヨーロッパでの英語には必ずと言っていいほど、それぞれの国ならではのアクセントがあり、それを聞けばどこの出身かが分かってしまうほど特徴的な国もあります。(イタリア、スペイン、フランスなどは分かりやすいです。またそもそもですが、ヨーロッパでは日本とは違いイギリス英語が基準となっている事も多いです。)

そのため、日本で考えられている「英語」の理想系であるアメリカ英語らしい発音や流暢に話せるかどうかはあまり重要ではなく、第二言語で話す相手へも分かりやすく話せるか、相手が言おうとしてる事を理解しようと意図を汲めるかなどの方が大切ではないかと思う事も増えました。面白いのが、ペラペラで話すアメリカ英語だと伝わらなくて、カタカナ英語の方がイタリア英語の発音に近いのでむしろ伝わる事がある事です。笑 

世界を見渡すと、非英語話者の人口の方が多く、ビジネスをするのであれば、様々なクセのある英語の多様性に触れ、それが理解できるようになる事にも価値があり、また、私たちが第二言語として英語を学ぶからこそ、言語が分からない人の気持ちが分かるという、そんな価値もあるのだと学びました。

理想の英語像を描くスパルタな日本

ヨーロッパはそのような英語の多様性を持ち、意思疎通を行う中、日本ではどうでしょうか。私の感覚ではある程度の単語やフレーズを知っていても、英語の教科書で流れるような英語を話さねばというプレッシャーを抱えていないか、英語を話せるのにまだまだと思う人が多過ぎやしないかと思うのです。もちろん、ネイティブスピーカーの発音に似せていく事は理解をされるためにはある程度必要なのですが、もしもカタカナ英語でも伝わるのならば、「英語を話せる」という事で良いじゃないかと思う訳です。

非言語話者同士で発音に厳しくし合って、英語で話す自信が削がれる事が多いのは勿体無い事だと思います。ヨーロッパで話されている英語の発音の多様性を知る事で、ゆっくり話すのも、独自のアクセントが付いてしまっても、それは悪い事ではないと多くの人に自信を持ち、外国語を学ぶ楽しいものであるべきだと伝えていきたいです。

余談ですが、アメリカに拠点を置く日系企業では必要スキルの中に、”LとRの発音ができる事、スペルミスがない事“ と明言されていました。もちろん英語が話せるに越した事はありませんが、完璧を追い求め過ぎるのはどうなのだろうとも思ってしまったのも事実です。というか、私が見てきた海外Tech企業でそのような項目を求人に出しているのは見た事がありませんし、採用担当者とコミュニケーションが取れるのであれば、現地企業ではちょっとした発音や文法の間違いなど、気にも留められていないのが現状です。因みに、海外現地ではまして、TOEICのスコアを求めるなんて事はありません。非英語圏のコンサルファームでやっとTOEFLかIELTSの提出項目を、かろうじて一度見た事があるくらいでしょうか。それくらい、スコアや文法の完璧な正確さよりも、生きた英語の方が重要です。

日本の英語教育、グローバル観育成へ

日本の多くの人たちが英語アレルギーになってしまう、もしくは英語への恐怖感を抱いてしまうのには、ここまでで書いてきたような「完璧さ」を求められる事から来る無言の圧力からであるとすれば、英語以外の外国語が飛び交うヨーロッパでの体験には、日本の英語教育に活かしていける考え方が豊富に揃っているとも言えるのかもしれません。


▼ 記事を書いた人について
ミドルネームから「ちぇる」と呼ばれている & ブログやSNSを通じて、日本と海外での発見や気付きを発信している人。何気ない光景を普段考えない切り口でみつめ、POPに社会を考えるきっかけを作ったり、日常に「問い」を持つ視点を届ける活動を行なっています。

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