見出し画像

野球

   少年の頃を書く。




   歳のせいにしてはいけないが、小さい頃のことを書きたくなる。




   野球があった。




   私の一番古いテレビの映像の記憶は、”長嶋茂雄の引退試合”である。




   私の父は、それをテープデッキで録音していた。




   8ミリは家になかったし、ビデオはまだ登場していなかったからである。




   私の野球はギリギリ長島から始まったのである。




   ただやはり、私の少年の頃の野球は、王貞治であり、巨人だった。




   父が、巨人ファンだったため、名古屋人なのに中日ファンにはならなかった、そのころは。




   テレビは野球が占めていた。兄も巨人ファンになっていたため、野球ばかり見せられていた。




   父はお酒を飲まない。が、野球中継を見ていた。父の帰りが遅くなると、兄が野球をずっと見るようになった。私も仕方なく見ていた。




   野球をやるようにもなっていた。父も兄もよくキャッチボールをしてくれた。今思えば、よくあんな危ないところでやったものだ。今は高速が通っている、若宮大通の緑地帯で私たちはよくキャッチボールをした。ボールがよく道路を転がったりしたものだが、交通事故には遭わなかった。




   小学校の野球部にも入った。レギュラーになる自信があった。誰よりもずば抜けて上手いとは思わなかったが、どれもそんなに努力しなくても、野球の動作はこなすことができた。しかし4年のレギュラー選抜に選ばれなかった。顧問の先生は私をずっと見ていた。私は、選ばれないわけがないと思っていたので、多少おどけて先生の顔を見ていた。直感的に(不味いな、やる気がないように見えたかな)と思ったら、案の定、私の名前を呼ばなかった。




   その先生の真意はわからないが、今でもその状況のことは思い出せる。それは、私の人生の初めての挫折であり、それを未だにひきづっているのである。その先生の顔も思い出せる。そして私の代わりに選ばれた、少年の顔も。




   私のプレイヤーとしての野球人生はその時終わったが、野球はその後の私の人生に趣味として長く関わっていく。




   野球盤というゲームを兄と何千回となく遊んだし。ファミスタというTVゲームも何万回とも遊んだ。甲子園も何回もテレビで観戦した。私の生涯一好きになった女性と、ナゴヤドームで野球観戦もした。




   大谷でもイチローでも野茂でもぴのでも落合でも江川でも王でもない。長嶋茂雄が私には、野球である。




   そう言える私が嬉しい。多分そう言える世代の最後であろう。   

   


#私の作品紹介

この記事が参加している募集

私の作品紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?