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『あ、共感とかじゃなくて。』展に行ってみた感想を垂れ流します

先週、東京現代美術館で開催されている『あ、共感とかじゃなくて。』展に行ってきまして。

みるからに「共感」というワードに食いついたんですが、案の定いろいろ感じたので備忘に残しておこうと思い。

この展示会は、ソウルメイトと行ってきました。
そう、私にはソウルメイト(と呼んでいる親友)がいるんですが、なんでその子をソウルメイトって呼んでるかというと、共感することの多さがレベチだからです。
今までこんなに自分の感情感覚を共感してもらえる人、逆も然りな人いねえわ!って感じで。

特に、気質や育った環境などがとても似ていて、両者ともそれぞれのコミュニティの中でマイノリティになることが多く。なので周囲から共感される機会が乏しかったという背景もあり、二人の間でいやそれ分かりすぎるっっと唸るようなことがたくさんあって、ソウルメイトと呼ばせてもらってます。はい。
もちろん違う考え方や価値観があるところもあります。(ちなみに興味の対象は大きく違うんですが、ソウルメイトはかわいい女の子、私は城です)

話はそれましたが、そのソウルメイトと私を繋ぐキーワードが「共感」で。
だから、という非常に安直な理由でこの展示会にソウルメイトを誘ったわけですが、感性が似てる人と行くと面白かったです。

さて本題に入りますが、「あ、共感とかじゃなくて。」展ってどういうコンセプトなのか、なんですが。

趣旨は、「共感を求めない」です。

私もソウルメイトも基本的には共感を「求める」傾向にあるんですが、今回のテーマはその逆。

日常のコミュニケーションには共感が溢れているけど、簡単に共感されるとイライラしたり嫌な気持ちになったりもする。なので今回は、「あえて共感しない」ということにフォーカスしてみる。
共感しないことで、新しい視点が得られ、そこから対話をするチャンスが生まれるんだ、
ということを伝えたい展示会なのかなと理解しています。

正直、アーティストの作品は、本当によく分かりませんでした。
でも、よく分からないからこそ、共感ではなく別の視点で考えてみる、というフィールドを与えられてるようにも感じました。

とりあえず、若干長くなりましたが感想垂れ流します。

分からないものは恐怖でしかなかった

まず第一の感想これです。
とにかく目の前のものが理解できない!となった時体がどう反応したのかというと、恐怖に飲み込まれる、でした。

なんかこの空間息が詰まる...
なんか動悸がしてきた...

てな具合に。

つまり、私たちは分からない理解できないものに遭遇するとまず恐怖を感じる、ということでした。
まあ生物にとってはこれは基本的で本能的な反応であり、すべての生物に備わる機能ではあるんですが、人間界の中でもその機能がよ強いタイプである、ということです。
危険を検知する扁桃体の機能がとても強いタイプです。つまり逃げ足の速い奴らってことです。

この展示会の作品が示すものは、どれも奇怪としか思えなくて。(だから余計に怖かったんですが)
例えば、砂浜みたいなところで松ぼっくりを拾っては捨てて、スコップで穴を掘ってその中に黒い液体を入れて、鼻歌を歌いながら、さっき穴に黒い液体を入れたところに今度はスコップで砂をかけて穴を塞いで...
これはなんの仕事でしょう?という映像とか。

本当にめちゃくちゃ真剣に理解しようと全神経をフル稼働させて画面に食いついてたんですが、皆目検討もつきませんでした。
ただわかったことは、目の前の作品に恐怖を感じてるってことだけ。

「私らはわからんものに出会うとまず初手に恐怖感じるんだね。」
「だね。」
「他の人だったらさ、いやちょっとよくわかんないっすみたいにさ、意味不明なのはあなたのせいだ的に突き放す人とかもおるよな。」
「たしかにか。とかさ、ん何言ってんの?ってイライラする人もいるよな。」
「そうだなあ、いろいろいるな。」

なんてソウルメイトと話してました。

こういうのを踏まえても、目の前に同じ事象が起きていても、人によって感じ方考え方って本当に異なる。だから人と人とが分かり合うことって本当に途方もなくハードルの高いことでもある、ってのをひしひしと感じました。

それに、個人的に思ったのは、やっぱ分かんないものは本当にどう頑張っても分かんないんだなということ。
人が理解できる物事というのは、本当に"自分が理解できる物事の範疇のみである"という事実を突きつけられたな、というのが強い印象でした。

でも生きていればそんなものなんぞ山ほど出会うと思います。そんな時に私たちに求められる力ってなんなんだろうか?

後に、ネガティブ・ケイパビリティなるものが私たちに求められてるものだって知りました。
分からないものを分からないものとして受け入れる力、です。

ネガティブ・ケイパビリティを鍛えるというのが私たちの喫緊の課題だと気づかされました。

あなたにとって共感ってなんですか?

とある陽光の射す明るい広間の壁にいろんな人のコメントが貼ってある場所がありました。
その壁には、それぞれの人が考える「共感とは何か?」や、共感にまつわるエピソード、自分の共感に対するスタンスとかが書かれていて。
それを読むのが純粋にすごく面白かったです。

「親友は全く共感してくれませんが、それでいいしそれがいい。」
「僕は共感されると嫌な気持ちになる。自分が一番自分に共感できるから、他人からの共感はいらない。」

などなどおもしろコメントや真面目コメント、主張系コメントなど、いろんなのがびっしり貼られていました。

その中でも特に印象に残ってるコメントがあり。

“Empathy is respect, without judging them.
We never know what they go through, be respectful.”

この展示会海外の人もくるんだーって感じですけど、そうだよな、なんかこの人の価値観素敵って思ったんです。仏陀の考え方に似てるなとも。

「共感とは、判断なしのリスペクトである。」と。

善悪正誤の判断をせずにただその感覚なり考え方なりをリスペクトすること、それが共感である。その人がどういう困難を経験してきたのかは誰も知り得ない。

なんか深いなってのもそうですが、共感することはリスペクトすることだと言いきるこの人の価値観に感動しました。

共感って、ただ相手の感じたことを自分ごととして捉えたり感じたりすることだってぼんやりと認識してたけど、共感はリスペクトだと思うと、すごく腑に落ちるものがあり。

この展示会のコンセプト「あ、共感とかじゃなくて」ってどういう時に感じるかなってのを考えた時、何かを伝える際に相手に共感してもらうことを目的に置いてない時かなと思っていて。

そういう時に共感が割り込んでくると、純粋にいや本当に今それは必要ない、って感じたりもする気がしますが、
状況によっては、気軽に共感されることで自分の気持ちや想いが軽んじられたと感じるなとも思い。

いや、そんな軽く共感しないでよ。
いや、あなたには分かんないよ。そんな気軽に共感されても嫌な気分になっちゃう。

みたいに、安直な共感は時には人を傷つけたり怒らせたりするものでもあるものだなと。

こういうのも踏まえると尚更、共感はリスペクトだっていう言葉はすごくしっくりきたんです。

共感はリスペクトありきで初めて価値を持つのかもなと思ったんです。

共感力という武器をどう使うべきか?

この展示会を経て、共感をどううまく使えるかな、というのを考えるようになりました。

私もソウルメイトも、共感力の高さというのが特性の一つとしてあります。
これが故に疲弊することもあるけど、これは強みでもあります。

だけれどもこの強みも、使い方によってはネガティブに働くこともあるとも思っていて。

共感には大きく4種類あると言われています。

①認知的・他者指向的共感(視点取得)
②認知的・自己指向的共感(想像性)
③情緒的・他者指向的共感(共感的配慮)
④情緒的・自己指向的共感(個人的苦痛)

で、私個人どの共感をよくするかなって考えた時、③④かな、④の時も割とあるなと。
④の例だと、もう相手にとってはただの過去である苦しかったエピソードとかを聞いた時、どうしてもおお...と胸が痛くなってしまう、とか。
この反応はたぶん相手が求めてる反応じゃないし、この場合①のスタンスで聞けるのが一番良いだろうなと思うんです。

こういう時、あー共感が相手にとってるポジティブに働く場面って、時と場合によるなと痛感するんです。

そういう意味でも、共感というものをうまく使いこなせる人間でありたいなと思わされたきっかけにもなりました。

いろいろ感じたしなんか疲れたけど、結論自分を知れて面白かった

私はこう感じるんだな、というのを知れてとても面白かったです。美術館とか展示会の楽しみ方を学んだ気がします。

共感って人と人を繋ぐ文明ではあるけど、それがいらない時もあるし、むしろそれが人を傷つける時もあります。

そんな"共感"を大切に扱いたいなと思います。

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