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【東京都同情塔】人は元々不寛容な生き物である#2

前回からの続き。

世間は自身の語彙で勝手に解釈し名前をつけたがる

小説の中に、「ママ活」という言葉が出てくる。
この小説の中にはタクトという若い美青年が出てきて、30代後半の沙羅とそのタクトが食事をするシーンがある。

このワンシーンを、世間は軽率に「ママ活」と称すであろうことは直感的に分かる。
年の離れた女性と若い男性が食事しているという情報だけで、短絡的に「ママ活」という言葉を簡単に当てはめてしまう。

でも、そういうものなんだろうとも思うし、
きっと自分も世の中の事象を勝手に解釈して、勝手に自分の言葉を当てはめてるんだろうな、っとも思う。

脳みそはいつだって簡単に理解できることを好むものだ。
きっとこうなんだ、こうであるに違いない、ってばしっと決めちゃう方がスッキリするのかな。

宙ぶらりんのままにすることが困難な世間。
そうかもしれない、で一旦置いておくことがいかに難題かを示してるみたいである。

最初に付けられた名前は基本的に捨てられなくなる

今日、衛生観念を持った人なら誰でも、「歯みがき」の本質は「磨く」ではなく「歯垢除去」にあると知っている。(中略)
したがっていつまでも口の中のケアに対して「歯みがき」や「ブラッシング」などとズレた呼称を使い続けるのは、下の世代の口腔環境のためにならない。(中略)
いまだにこの悲劇的な状況を変えようという動きがないのは、歯科業界が未来について考える気がないからか(…)

東京都同情塔

今後も使用するために簡単に表現できるように付けられた呼称。最初につけられた言葉。
上の例だと「歯磨き」。

どんな背景で付けられた言葉も、時間とともにだんだん当初の名付け背景から変化していく。
歯みがきに関しては、最初は本当に表面を綺麗にする、という背景だったのかもしれない。

まあ一旦そうだと仮定して、それが段々と研究なりなんなりで磨くよりも歯垢を取り除くことの方が重要だ!とわかった。
でも、じゃあ歯みがきという名前を、

これからは「歯垢取り」に変えよう!みんなそれでよろしくー!

とはならない。

世間では、すでに大勢の人間たちがその言葉を”使用中”だから、その言葉を改修するのが困難なわけだ。

当初から意味がだいぶ変わってるけど、もうそれを使い続けるしかないわね!って言葉たちがうようよしている。

だけど、捨てられなくなっている言葉の中でも、社会側から、意図的に変えていこうとされている言葉もある。

日本語を捨てようとしている日本人

母子家庭の母親=シングルマザー
障害者=ディファレントリー・エイブルド
第三の性=ノンバイナリー
複数性愛=ポリアモリー・・・

最近は、カタカナ言葉が多くみられるようになった。ダイバーシティインクルージョンとかもそうだし。

日本語を外来語のカタカナに置き換えれば、なんとかく差別的なニュアンスが除外されるような感じがするのは否めない。
ただのラベリング機能としてカタカナがちょうどいいってのは感覚的になんとなく分かる。

だが、単純に置き換えればいいものなのか?というモヤもあるっちゃある。


会社でやってるリクルーティング活動で同じ感覚を味わった。

「OB・OGという表現は時代にそぐわないのでやめましょう!」
「代わりに卒業生という言葉を使うようにしましょう!」

言いたいことはわかる。やりたいこともわかる。わかっているつもりである。
でもなんかモヤッとしてしまった。

なぜ?

今まで使ってた悪気のない言葉が急に悪だ!と指を指されたような感じがして、軽微な罪悪感が押し付けられるから?
純粋に使い慣れていた言葉を使用できなくなって、新たに言葉を探すエネルギーをより使わないといけないから?

どこかこう、不便感が拭えない感じ?

でも、モヤる側は誰かというと、無配慮にカテゴライズされる苦痛を味わってこなかった側の人間でもあるよなと思う。

苦痛を強いられてきた側の気持ちも考えずに、そうじゃなかった側が、不便だとか慣れねえよ!などと自己都合でヤイヤイ言う感じ。
外野が騒ぎ立てる感じ。

人は、自分にとって無意味である変化を、徹底的に嫌う生き物だなと痛感する。

元来不寛容な生き物だ。

でも、このカタカナ語に置き換わってきているこの現象こそに、著者は警鐘を鳴らしてるような気がした。

続く

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