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人は他人の痛みを本当の意味で理解できない | 自省録#2

今回は少し真面目な回です。
というと、普段適当に書いてるみたいに聞こえますけど、内容的にも少し真面目寄りです!と言う意味です。

なので意を決して読んでいただけると嬉しいです!(大袈裟)

昔わたしにはこんな感覚がありました。

“この心の痛みを誰か理解してくれたら、どれだけ心が救われるだろうか...”

今全く思わないことはないけど、昔はこれがものすごく強くて。そしてそれが故にすごく苦しくて。

うおお...誰か...分かって...
と望んで望んでの繰り返しで。でもなかなか叶いそうになくて。

だからすごく苦しくて。

でもとある理論に出会って、気づいたんです。
気づいたというか、ある種の諦念が芽生えたというか。


他人に100%分かってもらうことなんて、不可能だって。

かつて私が陥っていた問題

かつての私の話をすこしだけ差し込ませてください。


私は中学の時、学校に行けなくなったことがあります。
心の脆弱性が故のことだったんですが、その過去は結構最近までずっと苦しみの根源であり続けました。

そしてこの苦しみをずっと、誰かに理解してほしいと切望してたりもしました。

"誰かに分かってさえくれればこの心は救われる"

そう信じてました。

何回か意を決して口にしたこともあり。

すごく真剣な眼差しで聞いてくれた人もいたし。
甘えだと一蹴した人もいたし。

もちろん後者の時は、心臓が跳ねて、えぐられてベトベターみたいになりました。
これは、話す相手は選ぶことも大事だっていう学びを得たいい経験です。

そして、前者の人たちには本当に感謝しています。
こんなに理解しようと努力してくれたという事実が、私にとってどれほどの救いだったかは言うまでもないです。本当に。

でも。

"わかってほしいという渇望を満たす"という点では、どれほど真剣に話を聞いてくれてたとしても、思い描いてた理想の感覚は降りてこなくて。

話を聞いてくれても、一蹴されても、
どこかやっぱり、

相手には届かない。

この叫びは。

そういうことを突きつけられたのです。

心が痛すぎる時いつも、
誰か!分かって!お願い!と藁にもすがる思いだったけど、

この望みって、本当に満たすこと可能?
もしかしたらユニコーンに会えることを待ち望んでる少女と同じ?

なんて思えてきて。

...じゃあどうすれば、、?

と、途方に暮れる日々だったんですが、唯一明白だったことはあって。
それは、自分自身の内から何かに気づき、自分の何かを変えていかなければならない、ということでした。

これは全て、私の頭の中の問題なのです。

そんなこんなで不穏な鐘が低く轟く絶望の最中にいた時、一つの哲学に出会いました。

自分の痛みは相手に絶対に伝わらない

その哲学とは、ヴィトゲンシュタインの「箱の中のムシ」理論です。

誰もが箱を一つだけ持っているとする。
その箱の中身には「ムシ」と呼ぶものが入っているとする。
ただし、自分の箱の中身を見ることはできるが、他人は自分の箱の中身を確かめられない。

もしかしたら箱の中身は空であるかもしれない。
中身が「ムシ」ではない何かに変わってるかもしれない。

この思考実験からわかることは、
自分が「ムシ」と呼んでいるものが、他人も「ムシ」と呼んでいるものと同じである保証はどこにもない、ということだ。
<参考文献> ヴィトゲンシュタイン 『哲学研究』

ぱっと見、もんのすごく当たり前のことを言っているんです。相手の箱の中を見れないんだから、その中身を知る余地はないと。

でも、すごく大事なことだとも思い。

自分が痛いと主張してても、相手はその痛みを知りようがない。

そう言うことを言ってるんです。

「ムシ」を「痛み」に置き換えてみると、

「自分は他人の箱の中を覗けないから、他人の箱の中にある痛みを確かめようがない。だから、その痛みがどんなものなのかを自分が知ることなんぞ出来ない。それは逆も然り。」

と。

この理論に出会った時、どこかバチバチバチっと頭の中に電気が走って。

人の苦悩を、別の人が正確に完全に理解することは毛頭無理だったんだ...!
人間には限界があった。
というか、言語システムの限界がある!

足の小指をぶつけた痛みのように、同じような経験をした人には"ある程度"は分かるものだとしても、それはある程度に過ぎない。

"その痛みの全て"を他人が知ることはできない。

痛みや苦しみの感覚は、自身の脳によって感じられるものだから、この3次元的感覚を他人に伝えようと言語化したり体現したとしても、何かで表現した時点ですでに単なる2次元的な情報にしかなり得ない...?

「痛い」とか「涙が出る」とか、これらは自分の中ではありありと感じられている3次元の感覚だけど、他人には表面的な情報レベルでしか知ることはできないんだ!
それなりに想像は出来ても。


それが人間の限界なんだ...!


ふとそう感じたんです。

もし仮に知れる方法があるとすれば、たぶんそれはその人自身に憑依するとかしか無理なんじゃないかと思ったのです。

自分の痛みは自分しか分からないし、
他人の痛みもその人自身にしか分からない、

人間とはそういう風に出来ているのです。

分かってほしいという望みを捨てる

そう、私はこの理論によって、自分がとんだ無謀な望みにしがみついてたことに気づきました。

正直、人と人は完全には分かり合えないなんて分かりきったことです。
じゃあなんでこの記事を書いてるのかというと、ただその現実を突きつけたいわけじゃなくて。

分かり合えないだろうということは、頭では薄々分かってても、どこか「分かってくれる」と願い続けていて、藁にもすがる想いで。
でも、いい加減そんな夢物語に願掛けしてないで、自分がもっと現実的にならなければならなかった。

そして"分かってくれれば救われる"という、その洗脳に似たものを解くためには、洗脳状態にある自分の頬を叩く"強い目覚まし"が必要だった

その目覚ましが、私にとってはこの哲学理論だったのです。

この目覚ましがなにかは、何があれば自分は納得できるかは、人によって違うと思う。
科学的根拠の人もいれば、大切な人の言葉かもしれないし。

自分自身で、その目を覚させてくれるものを探し続けなければいけないんだって、
そう気づいたきっかけでもありました。

それからわたしは、その洗脳が解かれてから、この望みを捨てなきゃ!という思考回路に変わりました。
この叶うはずのない願いを拗らせることは、自分も、周りの人も、傷つけかねないから。

ただ、今までずっと渇望してたこの望みをさくっと捨てることは難しい。
し、洗脳は解けたけど、じゃあ次は今までの視点をどこに変えればいいのか?もなんか分からない。

どうやって手放すか、そもそもどうしてそう感じてしまうのか、その辺も自分なりに解剖してみたので、また次で書こうと思います!

それでは今回はこの辺で!

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