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マルティン・ハイデッガー「技術への問い」感想

 哲学書は、スッと入る時と入らない時がある。それが入門書だとしても侮ってはいけない。マルティン・ハイデッガーは私にとってトラウマな哲学者である。

 私はデヴィッド・クローネンバーグがどうも形而上学の観点から映画を作っていることが分かり、入門書を探していた。アリストテレスから入るのは難しそうだなと思っていた矢先、ハイデッガーの「形而上学入門」を見つけた。これが入門というにはあまりにハードな内容で困惑した。どうも、ハイデッガーはドイツ語の語源やギリシャ語、ラテン語を活用した言い回しから論を展開しているらしく、それが日本語訳されると難しくなってしまうらしい。フランス語系の言い回しならなんとかついていけるのだが、ドイツ語は未履修なので歯が立たなかった。

 しばらくたち、「技術への問い」に興味を持った。機械メーカーでシステムエンジニアとして働いていることもあり、また社会システムに関する論考に興味があるため、意外といけるかもしれないと思いハイデッガーと再戦することとなった。

 確かに、相変わらず語源系の言い回しや、恐らく造語なのだろう表現は難解だったりする。しかし、ここで語られていることはコンテンツが飽和状態となり時間を奪い合う企業像や行き過ぎた資本主義によるグロテスクな状況、数の暴力に晒される市民たちの本質にかかわる部分である。

 ハイデッガーは技術とは何かを考えるにあたり、「集-立(Ge-stell)」という概念を提唱する。雨を溜めて貯水湖を作ったり、崖を利用してダムを作る。人間は、自然をコントロールすることでエネルギーを集めて活用とした。そうした時に、川などといった自然は、自然ではなくプロセスの一部となり、「川」や「崖」といった側面が隠されてしまう。人間は、自然を制御し蓄えることで発展していったが、産業革命以降、その概念は人間にも適用され、人間をエネルギーの一部と見做し蓄えるようになった。存在しているものを消費することで自然をコントロールする主人となるわけだ。消費される側となってしまった者は、自分という存在を隠されてしまう。ハイデッガーの言う「存在から見放されていること」となってしまう。

 これはまさしく、今の社会を言い表す状況といえる。SNSをみると、「いいね」や「フォロワー数」が重要視されがちだ。そこには個人の顔がみえない。個々の運動の結果にもかかわらず、個人は「数」として消費されてしまうのだ。

 また、ハイデッガーは能力主義の問題点についても指摘している。能力主義において支配する側は、積極的に存在者を消費していく。その特性ゆえに、能力があれば階級が上がるようにみえて、上位者が積極的に上がる行為を許可しない自体が発生する。これを具体的な状況に置き換えてみる。会社の制度で、実力があれば給料が上がるよと謳われる。しかし、上位の者が下位のものを消費し続けることで、給料が上がる未来は阻害されてしまうのだ。国家レベルになると、選挙に行ってもなかなか好転せず、胡散臭い政治が行われてしまう状況にもあてはまるのではないだろうか。

 本書は、決して技術を否定する訳でも肯定する訳でもない。実際に、大昔の人が斧を作った状況と、現在のコンピュータで複雑な作業ができることはどちらも技術だと語っている。技術の発展は普遍的なことであり、それを止めることはできないのだ。なので、AIが絵を描くようになり、イラストレーターが不快感を示したことは気持ちこそ分かるが止めることはできない。技術とは何かを見つめることで、このような現状のシステムの欠陥や本質を見抜き自分の進む道を決めていく。これこそが我々が生きる上で重要なことと言えよう。


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