彼岸花 / 創作
「彼岸花だ、」と呟いて走り出した小さな童男が、花が群がる林道脇へ駆けていく。
5本ばかり並んだ其れの中から、目敏く枝ぶりの良い彼岸花を摘もうとするのを見るなり、思わず止めそうになって左脚を力強く踏み込む。
何処からともなく出てきた母親らしい女性が、童男が伸ばした手を優しく包んで、砕石が敷かれた道の奥へと消えて行った。
幼い頃、あの童男と同じ手つきで、脇道に咲いた彼岸花を摘もうとしたことがある。墓参りに出掛ようと外へ飛び出した、彼岸の或る日のことであった。
茎の根元を小さな手で掴み、折ろうと力を込めたところで花の包みと線香入れを手挟んだ祖母に止められた。
日頃から笑みを絶やさぬ祖母が、口角を1ミリも上げずに 「 それを摘んでしまうと、火事が起こる 」と呟く。機械的に貼り付けられた様な祖母の顔は異様なまでに恐ろしく、飯時から就寝に至るまで、まだ幼かった私の心を掻き混ぜた。
それから2年ほど経った彼岸の或る日、級友と帰っていた日のことである。その日は悪天で、三日前から計画していた放課後の遊びが予報には無かった大雨に拠って流れてしまっていた。
日頃から熱を含んで緩やかに渇いた砂路は、車輪の後や足跡に拠ってあちこちに跡を作る。足の裏の感触から、足元が弛んでいることを感じた。子供ながらに外で遊ぶことは難しいだろうと皆悟っていたのだろう、そこに居た誰もが言葉少なに歩を進めていた。
路傍の盛り土から流れ出た土砂が好き勝手に勾配を形成し、またそれは人の往来を阻むように、靴幅ほどの川を作っている。私はただ水の行く先を遠い目をして見つめながら、卸したての靴の爪先にしがみつく一匹の蟻を優しく払った。
級友の一人が淀んだ空模様に悪態をつきながら、傘を閉じた。級友の中でも彼は なかなかの粗暴な気質を持ち合わせており、ランドセルに染み付いた汚れからその片鱗は窺い知れた。徐ろに傘を振り回して、この雨を吹き飛ばしてやるんだと言いながら空を切っている。
周辺の田畑に浮かぶビニールハウスをも吹き飛ばすような風と、雨にほとほと疲れていた、彼を除く誰もが口を開かずに歩いたのだった。
規則的に並んだ露先の隙間から、暴れる彼の後ろ姿が見える。進んでいくに連れて道はうねったかと思うと、盛り土に草が繁茂する場所に差し掛かった。
風向きが一気に変わって、雨水が眼央目掛けて刺しこんでくる。五分も経たぬうちに顔の表面が冷たい雨水で満たされ、視界がぼやけた。その中で動く彼の姿とちらちらと揺れる、赤い花。
其れが彼岸花であることを、一目見て理解した。ぼやけた視界の中でも一際目立つ赤色をしている。雨天の下で咲いているものだから、その日ばかりはその色が固まった血液の如く黒黒としているように見えたのだ。
標的を見つけた彼は、私が止めるより先に傘を勢いよく振り被り、彼岸花の首を跳ねてしまった。菊座の部分に当たって、根元から折れてしまった彼岸花。彼はそれをひょいと拾うと、ランドセルの脇に差し込んで帰ってしまった。今思い返せば、あの時に止めておくべきだったのである。
その夜、布団に潜った私の元へ母が起こしに来た。寝ぼけ眼で話を聞いていた私は、末尾まで言葉を呑み込んで愕然とする。
着の身着のままで家を飛び出し、母から聞いた場所へと駆け出した。おどろおどろしい一報は私に靴を履く暇すら与えず、裸足で道を駆けるしか方は無かった。道を湿した土砂の隙間から飛び出した鋭利な小石、その集まりが足の裏を刺激する。走りながらも街の灯りで足を確認すると、血がどっと流れていた。
9月に似合わぬ熱波。エアコンの風を浴びるように、熱い風が彼岸の空気を縫って交互に身体に染みる。
彼の家が、燃えていたのだ。
業火と呼ぶに相応しい勢いで火の手は拡がっていた。窓の多い家屋から、生えるように赤黒い炎が伸びている。星が散らされた碧い空、十五夜の月光を投げられた碧い街、その中で、消防自動車でごった返す彼の家はまさに異質な画角であり、赤く赤く染った彼の家は若草の中で咲き誇る彼岸花にとても似ていた。
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