都界 / 創作
布団から出てみれば天頂超えて午後六時、夏の終わり頃から出しっぱなしだった扇風機が妙に鼻について、フルスイングで蹴り飛ばした。思いの外飛んで行った其れは窓際でバラバラになって、あろうことかプロペラでさえも粉々になってしまった。私の日常に似て、脆いものである。
カーテンを開ければ拡がっている景色は変容の無いビル街、一年を通してずっっと上を向いていて、空気も汚い。対照的に、道行く人々は思い詰めた様子で僅かに下を向いて歩く。
全てを分かっていながら、毎日毎日、一定の覚悟を持ってカーテンを開く。VHSで撮り溜めたようなぐずぐずの空気、まるで生きている感じがしない。そんな中私は、喉が渇いているというのに気休め程度に買った度数高めの缶チューハイを徐ろに煽っている。海月色の街に似て、私もまた死んでいるのだ。
上京したての頃は、東京は何処と無く輝いて見えていた。絶えず流れる車輌の渦だったり、電光掲示板だったり、胸を躍らせるものばかりでそれはそれは綺麗に見えたものだった。住んでみるとその輝きは流動的に姿を変えて、道端に落ちたゴミだとか、輝きを失ったものにばかり目が行くようになってしまった。丸みの無い、角が立った結晶の塊。そう言ったくすんだ所を目にする度に狼狽えて、黴臭い空気を肺に流して生きている。嘗て潤って見えた眼前に広がる宇宙都市はごくごく無味乾燥なものであって、多種多様な不幸や憎悪を凝縮させていた。
よくある事だと思うが、田舎に住む友は都会住みの私を羨む。その度に私はいかにも都会の女らしい顔をして、嬉しそうに見えるよう細心の注意を払って薄く笑うのだが、腹の中はまるで異なる極性を描いている。
皮肉でも何でもなく、故郷で緩やかな日々を送る朋友の方が私には理想的に思えてならない。
公園に集まって気軽に花火など出来ないし、夏祭りで掬う金魚だって長生きをしない。蔦が絡んだ小汚い建物を見つけるなんて、干し草の中から針を探すようなものだ。
均一に成型された街並みは墓標が一挙に犇めいているように見えた。腐り切った墓場だ。行き届きが過ぎた街並みは却って不均一不均一で、私は酷く疲れている。
ずっとずっと遠くへ言ってしまおう、高層ビル群れや工場の群れを抜ければ花畑があるかもしれないと本気で思って、ほろ酔い気分で街を闊歩する。さすれども見えてくる景色など何処も同じで永遠に変わらないチャプターをぐるぐるしているようだった。" 緑化運動を行っています" と游明朝で書かれた看板の脇には高さの揃った真っ直ぐな木がちょんちょんと植わっていた。これらが大木に姿を変える頃に果たしてこの街は生きているのだろうか、最もらしい理由を付けられてアスファルトに呼吸を封じられてしまうのでは。
どうせ、この木が大きく育ったところで何が生まれてくるわけでもない、木は今生きているのではなく生かされている訳なのだから。全てが偽物だ。
空気の渇きと喉の渇きに疲れて、はたまた憑かれては公園の蛇口を捻って器用に水を飲んだ。これが有り得ぬほどに不味い。不味いけれども必死に飲み込む。こうすると生きている感じがする、死んでいる自分自身に少しでもエネルギィが供給されている感覚、口の中に篭った熱が洗い流されていく。
案の定花畑など見つかる筈も無く、気が付けば踵を返して家路へと脚を向けていた。何度も言うが、幽閉され揃えられた街であるからして行きや帰りなどという概念も無い。星の無い代わりに建物が一挙に光り、野良猫や野良犬の遠吠えよろしく車輌が雄叫びを挙げている。
相も変わらず最寄り駅は人でごった返している。駅のホームから身を投げた一人の人間によって血流が停止し、遠目に見る限りでも阿鼻叫喚の様相を呈して居た。こんな所を死に場所として選ぶなんて、私なら絶対にやらない。せめて死ぬのなら崖から身を投げる方が余程穏やかなのでは無いだろうか。
あっちゅう間に夜は更けて八時を迎えようとしている。当然のごとく星なんて見えない都界でも、今夜ばかりは月の光を上手い具合に反射させたプロペラの残骸がきらきらと照り輝いて六畳間の部屋に星空を作っていた。
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