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ここ最近

風鈴の短冊を作るのが一昨年からのブームになっている。手頃な長さの画用紙の間にトレーシングペーパーが挟まっていて、カッターで削り取った型が外光を透過して照り輝いているのを確認すると、もうすぐそこには夏が居る、ということを何となく感じていた。朝方風鈴を下げ、溜飲を下げる思いで久方ぶりの二度寝を。そう思いつつ学生時代のアルバムをだらだらと眺めた。どうも大学2年の後半から 「課題が終わったから」という言い訳を残しながら怒涛の散財を行っていたようである。この頃のブーム、改め興味はフィルムカメラにのみ向いていたようで、数ヶ月ベタ踏みのままのアクセルペダルはカメラの台数を15台ほどに増やしていた。それから枚挙に暇なき収集癖はギターにレコードに移行して、何となく終わりを迎えてしまいそうな所まで来た。学生の頃のような、物を買う言い訳もクリックもない。購入したレコードもターンテーブルを一周するかしないかというままに、積読本ならぬ積音楽たる様相で部屋の傍らで釣鐘型の巣を作っている。私が求める形で、物体すらも私に対して呼応しなくなってしまったように思える。
どこか後ろ指を指されたい節あって、埋没していた高校ジャージを引っ張り出して煙草を買ってみたものの、什器から手に取られたそれが手元に渡るまで、また小銭を機械が飲み込むまで、一切の滞りなく行われてしまうものだから、何となく物足りないままだった。
手が届かないなぁ、と思っていたものをひとたび買ってしまうと何とも、購入以前の数々の取り巻きを考えると杞憂だったと思う。事実、人生で二つ目のカートンを片手に店を出た。繋ぎで買った変わり種は体質に合わず、2本吸ってクーリングオフ状態と成り果て、車のポケットにぎゅうぎゅうに詰め込まれている。持っているくせに吸わない煙草、持っている癖に弾かないギター、撮らないカメラ、聴かないレコード。愛せない人。家の廊下で眠るクワガタにも餌をやらぬまま、2週間目の時が流れている。そろそろ暑くなる頃、私だって重い腰を上げねばならない。
毎日、少しだけ嘘をついている。話に内含されている数値の目盛りを一つ大きくしたり、ここに書かれる内容だって、小説は無論のことエッセイもまた同じく、人を傷つけず殺さないくらいの嘘をついている。虚言癖と言われてしまえばそれまでなのだけれど、その嘘の一つひとつはたった今の生活に満足していない私自身による一瞬の逃走であり、今日も私は生きるために嘘をつかなくてはならない。カートンを買ったのもギターやカメラをいじっていないのも、人を愛してやれないのも全て事実なのだけれど、こうもして現実に対峙するまいと逃げているうちは、私は前に進めないのだろうし、現状を打開する手はないのだろう。


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