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映画『かそけきサンカヨウ』

※2021年10月20日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 今泉力哉監督作品はこれまでに『愛がなんだ』と『街の上で』を見ている。代表作の呼び声高い2作だ。

 いずれも登場人物皆が、どこかだらしない。そして傍から見るとドン引きしてしまうような、奇妙な恋愛関係だったり友人関係だったりの中で生きている。事実だけを並べるととても肯定しにくい人間の欲が顕れる。ところが一つ一つのシーンに写る登場人物たちの会話や振る舞いは、確かに自分の生きる世界の延長に実在しているように感じさせるほどのリアルさがある。

 センセーショナルな描写がないがゆえに、余計に人間の業の果てしなさが浮き彫りになる。しかしシーンの現実感ゆえに彼らを突き放せない。むしろどこか自分と重ね合わせてしまう。そういう不思議で圧倒的な力をこの2作に感じた。

 しかし、そういう異常な欲も愛おしく感じることができるのは、彼らがまだ若いとはいえ独立し、自らに責任を持つべき立場にある人たちだからだ。その点、本作は今泉のフィルモグラフィー上、ターニングポイントとなる作品であろう。何しろ主人公は中学から高校に上がったばかりのイノセントな存在だからだ。


 3歳の時に、水彩画家だった母・三千代(石田ひかり)が家を出てしまい、映画音楽の作曲家の父・直(井浦新)の下で育った主人公の陽(志田彩良)は、中学の時には既に家事を引き受けており、学校の友人たちとの放課後の談笑も夕飯準備の時間になれば中座して「おかん」へと自らを切り替える。そんな陽は高校進学を前に、父から再婚を宣言される。

 継母となった美子(菊池亜希子)と3歳の連れ子・ひなた(鈴木咲)を加えた4人での共同生活は、陽にとってそう簡単に消化できるものではない。同じ高校へ進んだ陸(鈴鹿央士)から申し込まれたデートで、陽が行き先に選んだのは三千代のギャラリーだった。そこで会った三千代は、あくまでもただの客として自らに挨拶をした。失意の陽は陸を置き去りにして家路に就いてしまう。しかし帰宅すれば、自分の部屋に散らばっていたのは、ひなたが破いてしまった三千代の画集だった。

 『愛がなんだ』の主人公・山田テルコが自分で自分を戻れないところへとまで突き進んだのとは対照的に、陽は自分ではどうにもならない外部要因によって追い込まれていく。過激なシーンがあるわけでもない。目に見える愛憎劇が展開されるわけでもない。ただ静かに、ままならなさが立ち上る、そんなつらさがある。

 周りの大人たちは、大人としての仕事を放棄したわけではない。ひなたに感情を露わにしたのち、自室へ引きこもって眠ってしまった陽が、夜に目を覚ましたとき、傍らにいたのは直だった。三千代が懸命に陽を愛そうとしていたこと、しかし自分と三千代が関係をうまく続けられなかったこと、そのせいで陽が早く大人にならなければならない状況に追いこんでしまったことを悔やみながらも率直に語っている。

 直の言いぐさはきれいごとにも聞こえる。結局家事は娘に任せ、再婚すれば美子と娘の分担にはなれども自分は依然関わるそぶりを見せない。現在の模範的な父親像とは相いれない。

 それでも陽にとっては、呑み込まざるを得なかった。 陽は父や実母に責任を負わせる道を選ばなかった。大人にとって都合の良いストーリーだと思えなくもないが、しかしこの4人を家族だと認めず、また、実母を許さない道を選んだとすれば、陽はひなたを愛おしく思ってしまう気持ち、母の絵が好きな自分を肯定できなくなってしまう。

 加害・被害の文脈に押し込めては消えてしまう自分を守るために、陽は現在の状況を自ら選び取った。そう私には見えた。


 本作は2部構成であり、後半は陸の物語へと移る。陸もまた片親の不在という環境下で育った。父親が海外転勤を繰り返しており、家では母・夏紀(西田尚美)と父方の祖母・絹枝(梅沢昌代)との3人暮らしである。バスケットボールが上手だった陸は、高校進学時の健康診断で心臓に異常が見つかり、以来運動はドクターストップ。陽とともに美術部へ入った。

 夏休みに手術を受けてからというもの、バスケや海外勤務という夢を諦めざるを得ない現実に押し潰されそうになる陸には、絵の才能を得て新たな家族との関係構築も順調な陽がまぶしく見えるようになり、余計に自分に自信がなくなっていく。

 陽に告白されても、アイデンティティークライシス真っ只中の陸は好意を受け止められない。果ては自分の心臓のことで絹枝にうるさく当たられる母に、自分を置いて父へ同行赴任を勧めるまでに至ってしまう。

 そこで夏紀もまた、直が陽に向き合ったように、自分が絹枝から受けた恩や陸への愛情を丁寧に語り、大人としての責任を果たさんとする。


 陽と陸は似ている。意に沿わない状況下で自室に入りベッドへなだれ込みながら向ける視線の先にあるものは、陽の場合は三千代の画集、陸の場合は父のこれまでの赴任地に印の付いた世界地図である。人生で最も幼い時の記憶も、不在の親にまつわる思い出である。ひなたの前で陽は母性を示し、お呼ばれしてともに食卓を囲んだ陸もまた父性を示そうとする。その2人が、経緯は違えどギリギリのところで自分を見失わないように懸命に生きようとする姿に胸を打たれる。

 陽や陸と同じ中学・高校の同期であり、喫茶店で集うメンバーの一人、沙樹(中井友望)にも触れないわけにはいかない。彼女もまた母子家庭で育っており、片親の不在という境遇で一致しているが、2人と違って経済的にも豊かではない。大学は国公立だけと決められているから、バイトもしつつ受験勉強も塾に通わず自習でまかなっている。

 沙樹は陸のことが好きなのに、陸が陽を好きなのが分かっているから言い出せない。進学と恋愛、双方で理想を叶えることが困難な自分の身の上を、自分でなんとか納得させようとするがゆえに沙樹の話は問わず語りになってしまう。

 本作のハイライトは間違いなく、沙樹のシーンであろう。雨のバスケコートで、陽からの告白をしっかり受け止めきれずにいることを相談してきた陸を前に、沙樹は届かないシュートを放ち「へたくそかよ」と自らに吐き捨てる。『愛がなんだ』でテルコとの別れ際、青が唾を吐き捨てるあのシーンに匹敵するような、陰鬱とした無念に満ち溢れた名シーンだろう。

 観客にとって物語は最後まである種の煮え切らなさを残す。どうしても大人たちの都合の良さが鼻についたり、きれいごとに見えてしまう場面があるのは否めない。しかし、本作に登場する若者たちはみな、必死に自分をつかみ取ろうともがく。陽や陸や沙樹を「大人に振り回される子ども」という客体として描くスタンスを本作は一貫して拒む。それゆえ『愛がなんだ』や『街の上で』のような、奇妙すぎて面白くなってしまうというコメディータッチを許さなかったのかもしれない。その意味でとても終始緊張感漂う作品である。原作短編2作をドッキングさせた脚本は若干詰め込めすぎのきらいもあり、正直なところ1回の鑑賞では消化できないものもあった。

 ある時はひなたにかき乱され、ある時は美子を追い出し、またある時は気が付くと勝手に直が入ってきているという、自らの存立の砦としては危うい空間であった陽の自室は、ラストシーンで陽と陸にとってのアイデンティティーの象徴へと転換する。本作を貫く静謐さと優しさは、彼女たちのこれからを間違いなくそっと応援しているのだと確信させてくれる終幕だった。本作に当て書きしたのだろう崎山蒼志によるエンディングテーマの温かく力強い歌声も爽やかだ。

(今泉力哉監督、2020年製作、2021年10月15日公開)=2021年10月15、18、19日、テアトル梅田で鑑賞

テアトル梅田にて


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