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母と過ごした2ヶ月半

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2022年8月。私は27歳、母は59歳。急に足が動かなくなった母は、ガンが脳に転移しており、余命1,2ヶ月と宣告される。私は仕事を休み、自宅で母の介護がスタートしました。母と過ご…
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#看取

32 今を無駄にする人に未来はない

明日、実家に行きたい。 母がヒステリックモード全開で怒りながら伝えてきた。 しかし、こちらは母を連れて行くとなると福祉車両の予約やなんやかんやいろいろ準備が必要になってくる。 「今度の週末にしようよ」 みんなでそう返した。 するとさらにヒートアップし 「今いかないと、もういけるかわからないんだよ!」 その言葉でハッとした。 なんてことを言ってしまったんだと 心が苦しくなった。 私が日々一緒に過ごしているこの人に この世の明日が来る確率は物凄く低い。 それなの

29 たとえ明日、母が滅びるとしても私は母を保湿する

「この身体、どうせ焼かれるんだから もういいんだよ」 私が、母の身体に保湿クリームを塗っているときだった。 そんなこと言わないでくれよ、と思いながらも私は直ぐに返した。 「そんなの、みんな同じだよ。私だって焼かれるんだから。」 明日、母は死ぬかもしれない。 それでも私は母の身体を保湿する。 あれじゃん、ルターが言ってたやつ。 『たとえ明日世界が滅ぶとしても私はリンゴの木を植えるだろう』 同じことしてる、あたし。 でも、あたしだって、みんなだって 生きていたら明

28 ボタンをポチッとから人権を考える

母は、我慢強すぎる。 痛み止めにはオキノームを処方されていた。 (少量の水で溶かし、飲む粉薬) 痛い、というのでオキノーム飲む?と聞いても 「飲まない。」 「まだ、飲むほどの痛みじゃないから。」  と返ってくることがしばしばあった。 しょっちゅう飲んでしまうと効かなくなるから、ということ。 その代わり本人が飲むタイミングは 相当の痛みなのだろう。 夜中3時でも、朝の5時でも、 痛いといえば起きて対応した。 しかし、飲む作業さえ本人に負担になっているように思った

27 尿バッグしんどろーむ?

母は入院中に、尿のバルーンカテーテルをいれた。(尿バッグと呼んでいたので以下、尿バッグ) 退院後、600ml程出ていた尿も 1ヶ月後には半分になっていた。 水分摂取量にも寄るが、腎機能が正しく機能しなくなり、尿も徐々に出なくなるという。 「死ぬ24時間前には尿が出なくなるらしいよ。」姉が教えてくれた。 今日はまだ尿が出ている。ということは 今日も明日も生きる、大丈夫だ。 なんて安心材料にしていた。 尿関連でびっくりしたことがある。 1つは 紫色採尿バッグ症候群 だ。

10 看護師さん

入院中、看護師さんは 母へも、私へもとても丁寧に接してくれた。 全脳照射の治療が終わった後は 自宅で過ごすと決めていたため、 自宅での看護の際必要なこと、病院で行っていることを一つ一つレクチャーしてくれた。 ・尿の捨て方 ・着替えの仕方 ・褥瘡(床ずれ)を防ぐための圧抜き ・クッションの位置 ・食事や薬の提供方法 など…入浴のお手伝いもさせてもらった。 質問をすればしっかりと答えてくれ、 着替え方については動画を取ったほうがいいかもしれないと提案してくれた。 母が摂

8 入院のはじまり

救急搬送された母は一旦全脳照射を行うため入院となった。 8月の入院の際の面会は、コロナにより制限付きだった。 ・特定の2名のみ ・15分間 ・期限内の陰性証明書提示 ・ワクチン3回目の接種件提示 (条件は病院、病棟によって異なるそう) 姉と私の2名と決め、私は毎日面会に行った。 PCR検査も、期限が切れてしまわないように2日に1回予約し検査。 あまりにも通いすぎて検査所の人から覚えられていた自信がある。 気遣いの母は、看護師さんへ物事を頼むのが憚れるようで私が訪れると

5 久しぶりの帰省

「お母さん、このままじゃ危ないと思う。」 母親をそばで見ていた姉からの連絡だった。ストレートに伝えてくれる姉に私は救われた。  母に連絡をしても、 「大丈夫、お仕事頑張って!」 「こっちのことは気にしないで!」 心配をかけないようになのか、詳細を伝えられなかった。 【私も家族なのに】【頼って欲しいのに】 抗がん剤治療中だった母は1ヶ月の間で急に歩けなくなってしまったという。 杖をついてなんとか歩く。 その一週間後には 歩行器。 次の週には 立ち上がることもできなくな

4 ちゃぴ、ごめん

2021年秋 ちゃぴ、ごめん 最悪な結果だった 検査結果分かったら連絡するねと言われた当日。そわそわして、仕事中にLINEを開く。 目に飛び込んできた文章。 ギュッと心臓を誰かが掴む、あの感覚。 あふれる涙を隠しながら素早く拭った。 丁度一年前。 秋晴れの午後。 手術の難しい箇所に転移が見つかった。 大胸筋への転移。 そこから、最後の抗がん剤治療との戦いが始まったんだ。

3 母のそばにいる くまさん

私が高校生のとき、母は乳がんが再発し片方の乳房が全摘となる。 ーーー 入院前一緒に出かけたジャスコ。(田舎) 母が、 「これかわいい!🧸」 と珍しくくまのぬいぐるみを見ていた。 その時は何気なく聞いていただけだったが 母が入院後、くまさんのことをふと思い出し、買いに行き病室へ届けた。 「覚えていてくれたんだ!」 ぬいぐるみで、キラキラと喜ぶ母。 想像以上の喜びように、母が可愛いと思った。 ーーー そのくまは今年の8月、最後の入院時も側にいた。 くまさんのこ

2 乳がんのはじまり

17年前、乳がんを患った母はその時に温存療法として乳房の一部を切除した。 私は小学生だったか。 その頃から母は痛いが口癖になっていたように思う。 天気が悪いと傷が痛むようだった。 正直そのくらいの記憶しかない。小学生の記憶なんてそんなものなのかもしれない。 しかし、一つだけ、覚えていることがある。 彼女は、自分が障害者になったみたいと言った。  みんなと違って、変な形になってしまったんだと小学四年生の私に切なく口にした。 彼女は周囲と異なることを極端に嫌っている。

27歳 自宅で乳がんの母を看取る 

今起こっている全てを、 受けいれる第一歩として。 自身に捧げる。 ーーーーー 59歳の母は17年前乳がんを患いその後再発、転移を繰り返し最後は脊髄、脳にも転移。2022年8月に予後は1、2ヶ月と宣告を受けました。 入院し治療を受けた後、自宅での療養へ切り替え。 訪問看護、訪問診療を活用しながらのケアとなった。 この大事なかけがえのない時間を、 少しずつ言葉にしていこうと思う。