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なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか。3冊目②日本経済と朝鮮出兵の結びつき

前稿の続き。

本稿は,「なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか」シリーズの3冊目『天下統一とシルバーラッシュ』①の続きである。

前回の記事はこちら⇩

 前回の記事を読んでいない人のために,本稿で取り上げている本の書誌。

本多博之,2015,『天下統一とシルバーラッシュ――銀と戦国の流通革命』吉川弘文館(歴史文化ライブラリー).

 前稿では,天下統一のプロセスにおいて,日本経済や東アジア貿易が変化したことを確認した。特に秀吉の朝鮮出兵と日本経済,東アジアの貿易関係の変化がどのように結びついていたのかという点については,次のように整理した。

 すなわち,織豊政権の貿易,国内市場や物流が徐々に中央政権によって把握され,管理されていったプロセスにおいて,朝鮮出兵は大規模な兵站を必要としたために中近世移行期における海運と資金調達の構造的変化をもたらすターニングポイントの1つとして位置づけられる,というものである。

本稿では,①海運の変化,②政権の資金調達の変化の2つに注目して,その中身についての具体的なまとめに入っていこう。

① 中近世移行期における海運の構造的変化

 本書では,朝鮮出兵を機に日本の海運が構造的な変化を遂げたと指摘している(本多 2015: 144)。

 その理由は,日本列島から海を隔てた朝鮮半島での戦争であったこと,秀吉が東北の諸大名にまで号令をかけて大規模な陣立を行ったことで,大量の兵士,食料,武器・弾薬を効率的に輸送する必要があったことの2点だ。

・天正20(1592)年4月の出兵に向けて,国内各地から出発地である肥前国名護屋に大量の米が輸送された。

・大型の輸送船建造のため,材木が大量に運ばれた。
→長宗我部は,大型船建造のための檜材について,本数・寸法・使用箇所を指定され,名護屋へ輸送するように命じられている。
⇒朝鮮出兵時の大型船建造は,やがて近世の大規模物流を担うことになる。

⇒このように,大量の兵士・物資を必要とした対外戦争は,それまで列島各地で独自の展開を見せていた物流を臨戦態勢の元で一元化することになったのである(本多 2015: 145)。

 また,それまで諸大名の支配から離れて,海上・陸上で独自の貿易・交易活動を展開していた「海賊」,「国人」らも諸大名の家臣として大名権力に組み込まれたことで,彼らの主体的な経済活動が大きく後退した。

 中世では,例えば東アジアを舞台に幅広く活動した倭寇や瀬戸内海を中心に活躍した村上海賊など,海上での貿易や交易において,海賊は重要な役割を占めていたことが指摘されている(山内譲 2018)。ただ,彼らの活動は,まだ日本列島を一元的に支配できる政権が存在していなかったことや社会情勢の不安定さ,そして定住しないノマドワーカーであったために可能であったのであり,秀吉の天下統一によって,大名のみならず彼らのような移動の民もまた,領民として把握されたのであった。

② 政権の資金調達の変化

 朝鮮出兵は1回目の文禄の役と2回目の慶長の役に分けられ,その間の3年間はいわゆる「講和・休戦期」と言われている。筆者によれば,この講和・休戦期に,日本では国内の諸鉱山から金・銀が豊臣政権のもとに集中する,いわば金銀運上体制が確立したという(本多 2015: 150)。

 例えば,石見銀山はもともと,毛利家が鉱山開発を進めるものに,鉱山経営と商業圏を与え,採掘した銀を上納させていた。ところが,秀吉はその毛利家に国内で採掘された銀の一部を上納させる体制を築き上げたのだ。つまり,秀吉は,毛利家を始め金銀鉱山を領内に持つ大名については,その採掘権を与える見返りに,採掘された金銀の一部を納めさせることで,大量の国際通貨を手に入れることに成功したのだ。

 こうした金銀鉱山の支配と同時期に進められていた政策を覚えているだろうか。そう,「太閤検地」である。太閤検地については,前回の記事で取り上げている。そこでは『太閤検地』の筆者である中野が,太閤検地の目的を次のように説明していたことを確認した。

秀吉が検地をとおして目指したものは、「村」という形で完結する在所の単位の画定であり、村・郡・国というかたちで重層する単位が、それぞれにどの程度の「富」を生み出すのかを数値として把握することであった。
                          (中野 2019: 9)

秀吉は天下統一を進める中で,「富を数値として把握すること」を目的とした検地を行った。この歴史的事象と金銀運上体制を結びつけることは簡単だろう。つまり,秀吉は天下統一のプロセスにおいて,米をはじめとする農産物だけではなく,金銀などの鉱産資源をもふくめ,全国の富を豊臣政権によって把握し,集中して管理する体制を築いていったのである。

金銀大型貨幣と銭への両替――出陣した大名らのお買い物

 ここでは朝鮮出兵の軍事的な要素から大きく離れる。出陣のため西国に集められた常陸国・佐竹家の家臣・大和田重清が記した『大和田重清日記』を参考に,大名たちのショッピングについてまとめ,当時の国内の通貨状況について明らかにしたい。

 佐竹氏は肥前国名護屋から帰国する途中,長崎と京都に立ち寄り,ショッピングを楽しんだ。いまでこそ,クレジットカードや電子マネーが普及しているが,当時はそんなものはない。常陸から購入資金を運ばせなければならないが,佐竹家では常陸―京に滞在する家臣ー名護屋のルートで資金を調達した。

 また興味深いのは,常陸から京までは「金」で運び,京で「銀」に両替し運び,さらに道中の食事や小物類は,「銀」を「銭」に両替して使っていたという。つまり,金貨や銀貨など小さいが高い価値を持つ貨幣を持って出発し,行く先々で少額貨幣の銭に両替する。100万円をもっていこうとするときに,100円玉1万枚もっていくことはしない。たしかに100円なら途中のコンビニや自動販売機で買い物をするときに便利だが,1万枚もあるとかさばるし重い。だから普通は1万円札を100枚もっていく。このような感覚と同じだ。

話を元に戻そう。大和田は京で両替した多額の銀を持って長崎に出かけ,ポルトガルの商人と交渉して大量の商品を買っている。
 それらは,中国産の絹織物,麝香,沈香,蘇芳,樟脳などの東南アジア産の香料・染料・薬である。そして,鉄炮と火薬の原料で日本でほとんど手に入れることができなかった硝石などである。外国産のめずらしいものと,武器・弾薬。これが当時のセレブのショッピングなのだろう。

まとめ

 さて,本稿では天下統一のプロセスにおける経済について,国際的な視点も加えた書籍,『天下統一とシルバーラッシュ』参考に,朝鮮出兵にかかわるできごとをまとめていった。そして,秀吉が大量の兵と物資を必要とした朝鮮出兵が,海運を中心とした物量の構造的な変化,そして全国の富を把握,管理する体制を築くターニングポイントであったことを明らかにすることができた。

参考文献

・中野等,2019,『太閤検地――秀吉が目指した国のかたち』中央公論新社(中公新書).

・山内譲,2018,『海賊の日本史』講談社(講談社現代新書).



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