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【茶の話】農薬と肥料

今まで僕は、「人がほとんど管理していない自然なお茶がいいなあ」と思って生きてきました。

飲んでいるものが、化学肥料と農薬が沢山使われたものだと知ったらあまり気持ちのいいものでもないし、茶はリラックスや癒し、息抜きに繋がるものだと思うので、それが科学や人工的なものに由来する物だと嫌だなと思っていたからです。

でも、そんなに深く考えていませんでした。インターネットで細かく調べたりしたことはありませんでした。

だってダージリンや中国の特別なお茶たちは栽培に化学的な対処法などをしていると聞いたことがないし、山の中であまり管理されていない茶を摘んだりしたものなどが高級茶として手元に回ってくることが多かったので、自然と、そういうナチュラルなもの、ネイチャーなものが美味しいお茶になるための必須事項なのかとずっと思っていました。

しかし、師匠のところで住み込みで茶の木の生育をまじまじと見ているとそうでもないな?と思うようになってきました。

「美味しいお茶=自然のもの」なのか?ということですね。今回はその辺を細かく見ていこうと思います。


まず、お茶の質は積み木です。

どんなに製造技術や仕上げの技術が素晴らしくても、原料のよさ、つまり「生葉のよさ」には勝てません。そして、生葉でよくない要素というのは、それ以降の工程で取り除くことができません。

なので「より生命力を持った活きた生葉」であればあるほど最初の土台はいいものになります。極端な話、ここが飛び切り良ければ、それ以降がお粗末でも、おお、これは光るものがあるなとなります。ちょっとよくないけどいいお茶だねとなります。


では、「より生命力を持った、活きた生葉」とはどういうものなんでしょう?生存環境が過酷で、身の引き締まった新芽でしょうか?作物はなんでもそうですよね。それとも、新芽の一番おいしいタイミングで摘んだものでしょうか?

もちろん、それらもとても重要な要素ですが、根源ではないような気がします。ですが、とりあえず生存環境が過酷で身の引き締まった新芽を考えてみましょう。


高い山 か 低い場所 だと、高い山の方が生存環境が厳しいですよね。

守られた環境 か 守られてない環境か だと、守られてない環境。

樹の年齢が古い か 若いか だと古いほう。

こんな感じでしょうか。とすると、

【高い山 + 守られてない環境 + 古い樹 】

こんな感じになりますね。これは天然のもの・自然の中のものと言っていいのではないでしょうか。実際中国ではこのような条件下で作られるものは尊ばれますし、美味しいです。

台湾では、これを「野放」や「野生」と言われていました。

そして、ある程度人が管理しやすいように整えているだけのものを「自然生態」と言われていました。

つぎに、自然生態を、茶園にしたものが「自然栽培

自然栽培の茶園に有機質の肥料を定期的に散布しているものが「有機栽培

最後に茶園に化学肥料と農薬を散布しているものが「慣行栽培」になります。


では、この野放や自然生態でないといけないのでしょうか?日本で考えると、野放や自然生態は現実的じゃないですよね?いちいち収穫時期に山の中に大人数で入り、一日かけてちょびっと摘んで生計が建てられるとは思いません。こんなことしてたら人件費が膨れ上がる一方で、まっかっかです。


そこで、「茶の品種の開発と普及」です。

野放や自然生態は、大体が種から育ったものです。種から育ったものは生命力が強く、根が深く伸びます。地下深くまで根を広げ、厳しい環境で雄々しく生き抜いてきた種から育った樹は、味わいが力強くいい香りがしたりします。

この「いい香りがしたりします」という言葉は、大事で、種から育った樹には特性が発現したり、しなかったり、全然関係ない特性が発現したりなど、不規則と言っていいのか、もう全く関係ない別の木ばかりが増えていきます。同じ樹がボンボン勝手に増えるわけではないのです。

その欠点を「じゃあ、いい香りがしたり、育てやすかったり、いい特性を持っている樹を見つけて、それだけを増やせば美味しい樹から沢山収穫できんじゃね?」と思ったわけです。「いい特性の木をかけ合わせれば、最強の木ができるのでは?」と思ったわけです。それが「品種」です。皆さんがよく聞く「やぶきた」とか「さええみどり」とかがこれにあたります。対して、先ほどから言っている種から育った茶の木のことを「在来種」と日本では言います。


野放のような限定的な条件下でしか収穫できないものを、

品種で補い、できるだけ標高があるところで栽培して補うわけですね。

生存環境が過酷で、身の引き締まった新芽で新芽のおいしいタイミングで摘んだものという条件は満たせそうです。ということは自然のものは確かにおいしいが、それに近い環境は作り出せるということですね。


ではそのカギを握るのは管理方法になると思います。

つまり「肥料を入れるか入れないか。農薬をまくかまかないか。」にかかってきます。もっと細かく言うと「肥料は有機質か化学質か、有機質なら動物性か植物性か」ですね。「農薬は有機質のものか、科学質のものか」実は農薬もJAS認定のもの沢山あります。種類は様々です。


話はそれましたが、日本での現実的な範囲は、自然栽培までと思います。茶園で管理していて農薬と肥料を入れない栽培。これなら、機械で摘めるし、まとまった量をとれます。自分で販売していくスタイルの農家さんなら生産は可能です。

ですが「自然栽培」という環境にはずっと疑問に思っていたことがありました。それは「肥料を与えずに収穫を続ければ畑のエネルギーが枯渇するのではないか?」ということです。(以降畑のエネルギーのことを地力と表現します)

普通に考えて、茶の樹は生活するために地中から水分や養分を吸います。吸った分は時期や季節によって根に蓄えられたり、新芽や親葉に行ったりしますがいくら植物の燃費が良くても新芽を収穫してしまえば、結構な地力が失われていくことになります。

しかし、「自然の中では肥料はあげないでしょ?だから新芽を全部とっても、自分の落葉もあるし、水と光合成で十分生きれるから大丈夫。」という意見もお聞きましたが、それは収穫しない自然の樹の話であって茶園に造成して、密集させれば地力の消費も肥大する。

年間一回しか収穫しないなどの対策をしたにしても、長い目で見れば地力が消費される一方なのでは?


つまり、「自然栽培は不自然説」です。

野放や自然生態は分かります。ほぼ環境に人間はノータッチなので自然の摂理の中です。肥料はいらないと思います。そんな収穫もしないし。

しかし、自然栽培は人が茶園に造成し、過度に密集した自然ではありえない設定の中で肥料を与えないというのは矛盾していないのか?

その答えを見つけるべく【自然栽培 + 高い山 + 古い樹 + 在来種 】を探しました。ありました。自然栽培で、標高600mと100mのブレンド・樹齢は90~80年・在来種の煎茶です。


そうして飲んだお茶は、とても香りがよかったです。ですが、なんだか「生き生きとした味わい」ではなかったです。なんか減量しすぎちゃったボクサーみたいな。鋭いし、キラッと輝くものはありますが、なんだか奥行きがない。

僕は旨味たっぷりのお茶は嫌いです。わざとらしい甘みのする茶は一口しか飲めませんので。そういう類のものではなく、野放や自然生態の茶にある天然の甘味です。そういうのはありませんでした。

淹れ方もあると思いますし、要素は一緒でも環境は同じものなどないので一概にはいえません。これが紅茶であったなら、烏龍茶であったなら。などの考えは尽きません。答えが出るにはまだまだ時間がかかりそうです。




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