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《目利きの見聞き》♯1 「王立宇宙軍 オネアミスの翼」

「目利きの見聞き」はただの語呂合わせ。自分のことをさほど目利きとも思っていませんが、一応美術研究者なのでそういうことにさせていただいて。私が見聞きしたものについて、ただただエッセイを書くシリーズを構想しています。

先日、細君と連れ立って映画「王立宇宙軍」4Kリマスター版を映画館にて鑑賞した。
ガイナックスによって製作され1987年に初公開された、言わずと知れたSFアニメ映画である。公開時、私はまだこの世に影も形もなかった。作品自体は過去に一度見たことがあったが、もちろん劇場での鑑賞経験はない。今回の劇場上映を、かねて楽しみにしていた。

アニメは嫌いではない。人並みか、その1.5倍嗜む程度である。ただ、決して熱狂的なアニメファンではないし、とくにこの界隈を賑わせている「SFオタク」には決して含まれない。ロボアニメは敬遠するほうだ。しかし、「王立宇宙軍」はやはり素晴らしかった。

チープな量産作品との格の違いを見せつける、圧倒的に作り込まれた異世界。作画の緻密さとその密度。とくに、若き庵野秀明によるあのシーン。坂本龍一の音楽は、素人だてらに言えばそこまで称賛すべきものに感じなかったが、しかしこの映画の世界を作り上げることに大きな役割を果たしている。優れた作品にのみ宿る、見終わった後の充足感を覚えた。
アジアでもヨーロッパでも、地球でもないどこか。精巧に作られた本作の舞台は、しかしなぜか、わたしたちに親近感を覚えさせる。

私は常々、「本当に偉大なものは初めにしかできない」と思っている。誰の言葉だっただろうか。自分の言葉だっただろうか。
小説家でも、本当に素晴らしい作品は、キャリア黎明期に一度しか生み出すことはできず、あとはそのアイディアの切り売りか変奏しかできない人がほとんどではなかろうか。それは、創作の原動力になる若き日のパトス、青春の清濁ないまぜになったおりのようなもの、それが序盤の作品で出し切ってしまうからだと、私は思っている。

仮に全く違ったアイデアと世界観をもう一度作り上げたくば、青春と同じくらい長く、しかもラディカルな経験が必要だろう。

エヴァは好きだ。しかし、「トップをねらえ!」を見ると、結局エヴァもその自己模倣の域を出ないように感じる。もちろん、その変奏がとてもうまく、飽きさせない創作を続けられる人もいる。偉大なクリエイターとは、案外そのようなものではないかと思う。

鑑賞前、細君に「どんな映画?」と訊かれ、「なんか宇宙に行くはなし」と答えた。過去に一度だけ見た私の、記憶の中の「王立宇宙軍」は、まさにそのような印象だった。
鑑賞後、細君に「どんな映画だった?」と訊いたら、「なんか宇宙に行くはなし」と返ってきた。結局この映画は、「なんか宇宙に行くはなし」なのだ。

物語全体が、あるいは、作り込まれた世界全体が、終盤のあのシーンのお膳立てになっている。あのシーンの圧倒的な高揚感というか、エクスタシーというか、それを成り立たせるために全てがある感じだ(その分、後段はやや冗長な気がした)。この映画に携わった名もなき若者たちは、まさに劇中の若者たちのように、「でっかいものをブチ上げる」ためにすべてを尽くしていたのだろうと感じる。

人類初の宇宙飛行は、長い人類史上でもリマーカブルなできごとに違いない。われわれの世界でもそうであるのと同じように。しかし、残るのはシロツグ・ラーダットという名前のみ。チームのメンバーたちの名前は残らず、終劇後の生死すら明らかでない。彼らの試行錯誤のひとつひとつ、かいた汗のひとつぶひとつぶは、誰にも記憶されない。シロツグですらそうだろう。彼の名前や、ラジオ音声は残るかもしれないが、彼がどんな男で、どんな恋をして、どんな気持ちで宇宙に飛び出したのか、それはどこにも残らない。

わたしたちの人間活動は、このようなものだ。われわれは人類初の宇宙飛行士ではない。どんなに大きなことをなしても、人類史には残らない。そしていつか人類史が終わるとき、歴史の積み重ねはすべて等しく宇宙の塵となり、記憶する人もいなくなる。人類自体が誰にも覚えられていない。そんな時がくるのだ。

だからといってわれわれは惰眠を貪らない。意味がなくたって、生きるのだ。何かをなすのだ。いつか意味をなくす何かのために、われわれは羽ばたき続けなければならない。
それが生きるということだ。

「人間とは何か」
それを端的に描き出した「王立宇宙軍」は、名作だった。


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