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躁鬱人:早起き賛歌

 あぁあぁすんごく眠たい。しかし、これだけは言って、置きたい、ということがあるので久々に書いておく。今日はAM2:43に起きた。(今、これを書いている現在はPM7:47なので、9時に起床した人にとっては、深夜2時4分である。)早起きは快楽であり、麻薬である。私にとって日の出より前に目を覚ますことは、好物であり、じぶんへのご褒美である。どんなに食べても、摂取しても、決して消滅することのないショートケーキの苺である。

 私にとって、常に明日は何時に起きるかは果てしない問いである。「そんなに早く起きてどうするの?」と、問う人が時々いらっしゃるかもしれない。しかし、気分屋にとって、普遍的な理由は特にない。いや、あるのだけれど、そのような質問をしてくるタイプの人に、うまい説明をできる気もしないし、納得して欲しいわけでもない。

 「どうしてコンクリートはキムチじゃないの?」という質問をされたことがあるだろうか。知的なあなたがどう考えたところで、それは「違うから、違う」としか応えられない。そのように、私は「AM3時に起きたいから、起きている」としかお答え出来ない。私はコンクリートとキムチが同一視される世界では生きていない。しかし、けれどもその世界には興味があるし、その狂気的な深淵を覘いてみたい。

 ぼくは、早起きというか。朝の時間が好きだ。だ、などと語尾を強めて言ってみたが、それはより的確に言えば、「好きだ」よりも「好きよ」であり、さらに精度をあげて言語化すれば「好きなのよ」ということになる。「あたい、どうしてもあなたのことが好きなのよ」である。理由なんて、わからないけれども、とにかく惹かれてしまう。そんなきになる相手が早起きであり、今朝のそれは午前2時43分であった。

 早起き。それは、それだけで、とてつもなく気分がいい。まず、起きてみた段階で気分がいい。「あ、おれは今日は早起きできたぞ」という自信である。さらに、昼頃にちょっと眠くなったとしても「まあ、俺は今日は早起きしたんだから眠くなって当然だ。当然の権利であり、眠くなるのは早起き人にとっての義務みたいなものだ」と強気でいられる。早く起きると、「あ、今日は起きてからもうx時間も経ったのか。すごいなあ」と、時計を見るたびに自分の存在、過去の功績(早く起きたという事実、偉業)を誇らしく思える。

 早起きは、麻薬であり、効能はエンドレスである。死ぬまで「俺は、20xx年のx月x日に早起きしたんだ」と自慢することができる。過去の事実は変わらない。鉄パイプなんかよりも、捻じ曲げれることができない、賛美歌である。決して傷つけることができない絶対領域な栄光である。早起き、それは勲章であり、快楽である。もう、それだけで気分がいいのである。

 なにせ、太陽が昇る1時間前とかに目覚めると、素晴らしい。世界は暗いのだけど、ちょっとづつ、世界が明るく、光の色に染められていくのを観察できる。太陽がだんだんと上がってきて、明るさに染められる空が好きだ。鳥の鳴き声も、時間帯で全く違うものになる。世界を満たしている色が、音が、温度が違うのだ。世界は生きていて、その中で私という存在が息づいている。そういった当たり前に包まれながら、「早起きをすることができた自分は、なんて全能なんだ」と自惚れることができる。

 今日の朝、目を覚ましてから、私が私が朝3時に目覚めたことに自惚れている。誇りに思っている。なんなら天才だと思っているし、なんなら天才である。きっと眠るまでこの自惚れは続くだろうし、なんなら、この自惚れは永眠するまで続けたい。ご気楽で、ご機嫌な人だ、と、一生他人からも思われ、自分でもそう自分を思い続け、息をし、行動し、死にたい。自分なんてダメなやつだ、なんて思うよりも、自分はなんて天才なんだ、と、一瞬一秒の呼吸とともに、天才が排出した二酸化炭素で、少しでもこの地球上の気体を満たしたい。

 朝は、なんといっても、物音がすくない。生き物の呼吸や鳴き声は、確かにたくさん聞こえてくるが、それは無為自然であり、無音である。それは鼓動のようなもので、あるはずのものであり、決してノイズではない。頭が冴えているのか、時折、音が"聞こえる"という、外側の対象ではなく、音に"潜り込んでいた"という、自身の内面的な発見的な事象になっていく。外的な事象と自身とが溶け合っている感覚である。

 そういう時は、作業がはかどるかなぁ。というのがあって、スイスイと空気の抵抗を感じることなく、ごくごくと酸素を飲み込める。頭に血が周り、この気分を止めてはいけないな、とか考えるまでもなく、知り合いにモニコ(モーニングコールの略であり、相手からは一切頼まれていないこともあり、相手からすれば迷惑電話の一種である)をかけたりしている。自分としては、人の役に立つとか、迷惑とかは考えることが出来ずに、早く起きてとても気分がいいので、誰かにこの気持ちを伝えたい、気持ち良さを他者にまで伝播させなけねばならない。そういった使命感、そういった純粋な思いで、電話を、誰にかけようか。悪戯してやろうか、と思いながら、すでに電話をかけてしまっている。

 ほんとうは、モニコだけでなく、知っている住所まで足を運んで、ピンポンして、珈琲を淹れてあげたい。コロナが、もうすこし気分良く晴れ渡ったら、コロナが開けても引き続き在宅ワークになった友人の家に行って、めちゃくちゃ仕事の邪魔してやりたい。仕事してる横で少年ジャンプ読んだり、ゲームしたり、即興で歌作ったり、映画見て声を上げて、普段よりも一回り大きな声でいちいちリアクションをとったり泣いたりしたい。そんで、散歩したりして、住所の近辺を味わって夜まで居座って。晩ご飯は相手のお金で近くの旨い居酒屋とかご馳走になりたい。

 昨日はAM4時に起きた。なので、人生で初めてのパン焼きをした。パンを焼いてみたいなぁとは思ってはいたけど、あ、今か。今日がその日なのか。と、天からのお告げのようにそれを把握した。やりたいことリストには、それをやるだけでなく、そのスイッチである「それをやりたいと思えている感覚」がなにより必要である。食後に食べる杏仁豆腐がうまいのであって、寝起きにいきなりビールを飲んでも気持ち悪くなって吐いてしまう。どんなものでも、タイミングがあり、やりたいことリストには、感覚と感覚への鮮度が必要である。

 なので、わたしはパンを焼いた。天命に従ってパンを焼いた。つくづく、形から入るタイプなのだと思った。私は、早起きを利用してパンを焼くという逆転の発想を実行するにあたった。天命に従事した。しかし、実際にパンを焼き始めたのは、起きてから数時間経った後であった。何故ならば、何より気分がいいので、太陽がまだ本領を発揮していない、光が風景に編み込まれていく町を散歩する必要があった。ADHDであり、躁鬱人であるわたしにとって散歩とは、自由気ままに歩くことであり、目的地はない。

 いつの日か「散歩に行ってくる」と、近くにいた人に宣言したら「どこに行ってくるの?」と尋ねられて、返答に困ってしまったことがある。頭がフリーズした、言葉が出てこない。わたしにとって散歩は、どこか明確な目的地に足を用いて身体を運ぶ行為ではない。自由気ままに、その時々に生成される興味に体を委ねる行為であり、目的地はない。ただ、「いい感じにふらふらしたい」という欲求だけが先立っており、時間は2分でもいいし、2時間にもなることもある。終わってみないと、どれだけじぶんが散歩をしたいのかもわからない。2分の散歩でも2時間の満足度を持つことがあり、散歩をしたい時のわたし、及び散歩をし終わった私にとって、時間は直線上に等間隔に並べられたものではなく、自由に棚から出し入れ可能な、ヘンテコなものである。

 散歩に出かける、と口にして、家のすぐ近くの草花を眺めて終わることもあるし、自転車を用いて県境をまたいだり、ランニングで湖を何周もしたり、ただただSNSとにらめっこするというのもある。それも含めて、散歩であり、具体的にどのような行動をとるのかは、はじまって、散歩に没入して見ないと、私にもわからないのである。気の済むままに時間と戯れ、そして、飽きるか、疲れるか、して、家に戻ってくる。それが私にとっての散歩であり、散歩にとって最高の技術である。

 「飽き」は天の恵みみたいなものである。それこそが、実りだ。何かを思いついて、それで行動した。すぐやってみた。思いつくままにやってみた。誰からも学ばずに、自分なりの方法で適当に試してみた。ああ面白かった。心地よかった。そして、飽きた。何があったか忘れてしまった。でも、それがとても心の栄養になるし、何かの拍子のその経験が急に蘇って、ヘンテコな結びつきをして他者からも観測可能な果実を結ぶ。

 そうそう、わたしは、早起きを利用して、パンを焼いた。パン屋にいくと、安いし、美味しいし、で、塩パンを買う。だから、今回は塩パンを焼いた。冷蔵庫には1週間前から漬け込んでいる自家製のレモン塩があるので、それを使って、塩パンを作った。パン作りは、もしかしたら人生初ではないかもしれないけれど、自家製レモン塩パンなら、まちがいなく人生初の試みである。そんな風にして、ナニからNANIまで、おめでたく、祝いたい気分になる。

 冒頭でも記したが、早起きは偉大だ。早起きは快楽であり、麻薬である。私にとって日の出より前に目を覚ますことは、好物であり、じぶんへのご褒美である。どんなに食べても、摂取しても、決して消滅することのないショートケーキの苺である。現在、20:28であり、書き始めてすでに40分近くが経った。早起きをしたからか、この過ぎ去りゆく時間、その全てが、自分の意思で過ごしたた時間だと感じられる。起き、そして、眠る時間を太陽に委ねた。いや、共に過ごしたことで、時計の針、時間の呪縛から、解き放たれように感じる。あぁ早起き賛歌。

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PS 2020年5月31日 AM6:42 追記

 今は翌朝である。昨日の晩にこれを公開した時点で、すでにいくつかの誤字脱字があったので、それを修正した。きっとまだまだあることだろうし、読み返すと、どんどん書き足したいことが出てくる。なので、これを面白いと思った方は、ぜひ、私をフォローしていただきたい。

 この投稿は「躁鬱人」というマガジンの中に入っている。面白いと思った方は、ぜひサポートをしてほしい。なぜなら、サポートをされるとご機嫌になる。躁鬱人へのサポートは、彼らをとても喜ばすし、彼らは舞い上がるので、さらに多くの記事を投稿することができる。100円でもいい、1000円でもいい、あなたの貯金残高の全額をサポートに回してもいい。


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ほら↑

 そう。私の本業はアーティストである。絵を描いたり、音楽を作ったり、ジャンル分けが難しい何かしらを作ったりしている。あなたのちょっとした気の迷いのような、スキや、コメントや、フォローや、サポートに、私は喜ぶ。私の記事を読んで、もし思い出した人がいたら、その人にぜひ記事を送りつけてやってほしい。別に、記事を送りつけなくてもいいから、その思い出した人に「久しぶり、元気?特に用はないんだけど、唐突にあなたのことを思い出した」などとメッセージを送ってほしい。

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