「W杯 ゴミ拾い」は日本の美徳なのか


ぼくはサッカーへの関心が薄いから、知識も少ない。だからよくわかってない人間の、的外れな考えかもしれないけど。けれど、知識がなくても考えることはできる。

「ゴミ拾い」は日本人の美徳ではない

サッカーの試合終了後、観客がスタジアムのゴミ拾いを率先してやっている、というのをSNSで見かけた。素直に「素晴らしい」と思った。が、見出しや、中身を読むと歪んだナショナリズムなのかと、一歩引いた。

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 「W杯 ゴミ拾い」 とGoogleで検索した結果

3つの記事の、真ん中と右の見出しをみてほしい。これは、明らかに大げさだ。ゴミ拾いをする人がいるということは、そこに捨てた人がいるという事実。ゴミなんてものは、そもそも捨てた人がいるから拾える。ゴミ拾い自体を揶揄したいわけじゃない。捨てる人もいれば、拾う人もいる。それが事実だ。だから「W杯名物「ゴミ拾い」世界へ拡散 海外紙 「日本人が呼び起こした活動」なんていうのは、言い過ぎかなと思う。


日本政府のゴミ問題への対応は世界から批判されている

そして、「W杯 ゴミ拾い」が賞賛される中で、日本政府のゴミ問題への対応は避難の対象になっている。

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「カナダの先進7カ国首脳会議(G7サミット)で日本と米国が、深刻化する海のプラスチックごみを減らすための数値目標を盛り込んだ文書に署名せず、環境団体から11日、「恥ずべきことだ」などと批判が相次いだ。」

記事より引用

日本はゴミ問題に関する文書に対して、署名しなかった。意図や理由は、調べてみたがぼくにはわからなかった。というより、書かれている記事を見つけたが、その理由がトンチンカンに思えた。

賛美するだけじゃないか

W杯の日本人観客と、その政府を比較するのは、おかしなことかもしれない。ゴミ拾いをした観客がいたことや、その存在によって他の国にも、その活動が広がったのなら、それは喜ばしいことだ。

が、ぼくは「W杯 ゴミ拾い」の検索ででてきた記事に、サッカーを利用した日本人の操作や、ゆがんだナショナリズムの扇動を感じた。サッカーという世界的に莫大なファンを産みつづけている偉大な"装置"を使って、じぶんたちにとって都合のいい情報を拡散しているように見える。ゴミ問題に取り組まないのは、日本政府だけではない。そこらじゅうの国民がそうだ。こうやって書いているぼくだってそうだ(偉そうに書くもんでもないが)。


「ゴミ拾い」はW杯だけに必要なものじゃない

ぼくはこの1週間、毎日片瀬江ノ島のbeach cleanをしている。浜中にゴミが落ちている。ペットボトル、花火、レシート、お菓子の袋。30分のゴミ拾いを8回した。それでもなくならない。昨日拾ったところに、また落ちている。


ゴミ拾いが疲れたので、水浴びをすることにした。すると海の中にもゴミが漂っている。目を凝らさずとも、ゴミが海の中を漂流している。ぼくは悲しくなった。そして、拾ったゴミを抱えて家に向かう。その途中、海に行く格好をした女性に「きたなっ」と言われた。ぼくが拾ったのは海の一部だ。砂の上、砂の下。そして海の中にまでゴミが落ちている。あなたが今から向かうのはゴミの海だ。

捨てる人がいなければ、拾うゴミもない

ゴミ拾いは日本人固有の美徳ではない。大きくひとくくりにしすぎた。拾うい人もいれば捨てる人もいる。そういった集団が日本人だし、一部のひとの善行によって、悪行が帳消しになるわけではない。

PS 国ってなんなんだろう。国境はどんどん薄れて行く。電子国家エストニアの誕生に、難民問題、ジプシー。みずから国を離れ、新しい国で住まう人々。それを余儀なくされた人々に、国すら持つことができない人々。



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