「食う」と「食べる」, そして「食う」ためにpolcaを行った"私"。
考え過ぎて、時々、食べることを拒否したくなることがある。動物は、生存のために「食う」を行うが、ぼくたち人間の多くは「食べる」を行う。
ここでの「食べる」というのは、ぼくはそのままでも食べれるものを、わざわざ調理・調味し、皿に盛り付け、箸やフォークでそれを口に運ぶ、という行為をさす。
それに対して「食う」は、動物的であり、生存のための栄養摂取として、食べるものを必要としている。という考え方。
ぼくが「食う」という動物的な意味での栄養摂取のことだけをしていれば、冒頭に述べたような、食を拒否するようなことは起こり得ないのではと考えられる。「生きることは食べること」だ。それはつまり「死ぬまで食べ続けること」でもあり、逆説的にいえば「食べることをやめれば、死ぬということ」でもある。だから、「食べる」と「食う」の構造を見た時に、「食べる」は「食う」を土台とした行為だと言える。
ぼくは時々、考え過ぎて、食事を拒否したくなる。それは、「食べる」という行為が、「食う」の持つ栄養摂取という意味だけでなく、文化的、宗教的、民族的、時代的な意味を持っているからだと考えられる。
上にあげた、調理や箸を使う、というのは、文化的、民族的なものだ。また、食にも流行りや、進歩があり、それは時代的なこと。また、とある宗教・進行では、ある時間は食べない、や、あるものは口にしない。もしくは積極的に口にする。といったものがある。食事の時の作法や、それぞれの人間の好みによっても、食べる対象はその方法は様々だ。
これを読んでいるあなたは、食について考える中で、「食べる」ということを放棄したくなったことはありませんか。
例えば、あなたに渡されたチョコレートが、自分ではなく、他者のために作られた、なんらかの理由で宛先の人がそれを食べることを拒否し、あなたに巡ってきた。もしくは、何時間も並んでやっと入店したレストランのスープに蝿が入っていた。それらを食べたいと思うか。もしそうで無いならば、どうして、それらの食事を拒否しようと思うのだろうか。「食う」ことだけをしていれば、それらに「食べたく無い」という感情は抱くことなく、口にするだろう。つまり、「食べる」とは、意味的なものであると言えるのではないか。
ぼくは、時々、お腹は空いているが、食べたくない、と思うことがある。制作に夢中になると、思考が「食を拒否するときの自分」に近づく。そして、生理的に「食べる」ことを避け始める。その理由は、その都度変化しているし、いまは「食を拒否するときの自分」ではないので、そのことについては書けない。その時がきたら、書こうと思う。
そういった意図的に「食べることを拒否」することが多々あり、数日前にpolcaで食費の支援を募った。
食費を支援していただくことで、(言い方は悪いですが)無理にでも食を口のなかに放り込み、咀嚼し、栄養を摂取する、という営みの中に、自分を放り込むことができるのではないかと考えた。実際に、経済的な理由で、食費を制作費にあてたいという面もあります。しかし、それと同じくらい、もしくはそれ以上に「無理にでも食べる」環境を、じぶんに強いることを、実行したかったのだと思う。食べなければ、作り続けられない。
「食う」と「食べる」の差に、意識的になる必要があると思う。それは、どっちが偉い、高尚な営みか、とかではなく、どのような形でそれらに差が生まれているのかを、自分なりに分析するという意味で、だ。
いただいたサポートは、これまでためらっていた写真のプリントなど、制作の補助に使わせていただきます。本当に感謝しています。