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閉店セールは期間限定だから大繁盛するわけで、一年以上もやっていれば見捨てられるのだ

今日、色々思うことがあって長女と一緒に早朝から散歩した。
帰りに駅前の立ち食いうどん屋でうどんを食べて帰った(テーブルもあって子ども連れでも問題ない)。

大学時代、家の最寄り駅にある立ち食いうどん屋に毎朝通った。
決して絶品といえる料理ではないが、あの騒然とした空間にあって日本の和を感じさせてくれる出汁の香りが僕の食欲を誘うのだ。「安くて、早くて、美味い」は大きな魅力である。僕は立ち食いうどんが大好きである。

長女と二人っきりで朝からうどん。あれ、この光景どこかで見たことあるな。

そうだ。昨年も暖かくなって早朝に長女と川沿いを散歩した。帰りにお腹すいたから「うどん食べて帰ろっか。次女には内緒ね」と、ここにやってきたことを思い出した。

去年はガラガラだった。一昨年までは土曜日でも早朝から駅はイベント参加や旅行を目的とした老若男女が楽しそうに行き来しており、うどん屋も賑わっていて客の回転率もよかった。しかし去年は休日だと誰もいない。店員さんも1人で、客も僕と長女だけの悲惨な状態だった。しかし今日は違った。全盛期の7割くらいの力は取り戻しているように見えた。

ここ神戸は未だに緊急事態宣言下であるが、人々の自粛ムードは既に解けているように感じる。もちろん統計的な情報を見たわけではなく肌感覚に過ぎないが、若い人を中心に自粛を中断し始めた印象がある。

「強制力のない自粛の要請」で国民を家に閉じ込めるのは、今のように自粛期間が明確でなければ既に限界値に達しているように感じる。

人は期間を明確にしなければ弱い生き物である。

僕は、就活期間中は多くの経営陣と話ができるせっかくのチャンスだと思ったので積極的に交流ができる場に行った。

そこで有名な会社(日本人の大半が知っている会社)の経営陣に聞いたことで今でも印象に残っていることがある。今の時代と違ってパワハラだの体罰だの、そんなことを過剰に問題視する世論、風潮がなかったこともあったと思う。
なんと最終選考でマラソンを取り入れているとのことだった。
最終選考まで残した人材は、書類上や面接での立ち居振る舞いは、横一線であるという。そりゃそうだ。中身すっからかんで就活に挑んだ僕だからハッキリ言えるが、こんなのは瞬間風速でなんとでも「すごい自分」を作り上げることができる。

採用側からすると一度正社員で雇用したらよほどのことがない限り解雇はできない。そこで最後はマラソンで本物かどうかを確認するといった今ではスポーツ系の会社以外でなければありえない選考方法で判断するとのことだった。ただ、面白いのはこの内容である。

最後まで先導する自転車についてきた人は全員合格なのである。そしてペースは誰でもついていけるスローペースである。一つだけ特徴なのが、何km先がゴールかは最初に言わないのだ。

最終選考に残った学生はこのしんどさが何kmで終わりなのかわからない。もしかしたら10km?42km?それとも脱落者が出るまで?疑問に思いながら走っている。
結果的に当初から予定通りでわずか3km地点がゴールであるが、これで3分の1が脱落するらしい。最初から3kmといえば、おそらく全員残るという。

これはよくできた最終選考だなと思った。
「仕事の大半は時間をかけることで終わるのではなく、終わらせるために必要な時間をかけていく」という本質を見事についていて、この能力の有無をこの方法によって簡単に見極めることができるだ。

仕事はゴールがいつになるか分からない。
ゴールにたどり着くためには「創意工夫」、「効率性」、「忍耐力」といった力が必要である。「創意工夫」や「効率性」は仕事を進めながら身についてくるので、最終選考では「忍耐力」を試したい、ということだろう。

今、これをやればきっと悪いニュースになる。
教育評論家が「これは体罰である」とか、コメンテーターが「マラソンに使う体力と仕事の忍耐力に相関関係がないと示されている」とか、「ジェンダーフリー・障害者と共に生きる社会にふさわしくない」とか、事象の一面だけをみて相当な批判が巻き起こるだろう。

でも個人的な意見を言うと、僕は今の時代でもありだと思う。
スローペースが体罰とは思わないし、LGBTや障害者へは違う選考方法を考えておけばいい。「期間を設けなくても」「先が見えなくても」努力を継続できるかどうかを見極める指標としては最適だと思う。
人間は期間が明確でなければ本質的には弱い生き物だから。

閉店が決まると「たまらなく魅力的」に思えてくる心理

2008年にくいだおれ人形で有名な「くいだおれ」が閉店した。諸説あるが売上不振が一番の原因である。僕は学生時代大阪で過ごしたが、店の前に設置されたくいだおれ人形と記念写真を撮る人は多いが、中に入って食事する人は殆どいない。

何の工夫もなされていない普通の定食屋さんである。メニューも大阪名物があるわけでもなく、高くも安くもなく、そして特別に美味しくもないのだ。ファミレスの方がリーズナブルで種類も多い。くいだおれで食べたという記念目当ての観光客をターゲットとしてきたようだが、ニッチもサッチもいかなくなってしまったのだろう。

ただやっぱり知名度のあるくいだおれである。閉店の3ヶ月前に閉店のアナウンスした途端に、大繁盛店になるのだ。「なくなると決まると急に惜しくなる」という人間の心理がある。そこにあるのがあたりまえというときには、それほど関心もなかったものが、「いつまででおしまい」と期限が決まったとたん、たまらなく魅力的に見えてくるものだ。

ここからは僕の推測だ。
もしかしたら、過去の事例も踏まえて自粛期間の中身をもう少しフレキシブル(柔軟性があるもの)にすると自粛期間自体も「この期間だからこそやっておこう」という気持ちになるのではないかと思う。

つまり今のような「強制力のない自粛」が一番中途半端である。「なんであのイベントは大丈夫で、こっちはダメなんだ。」「あそこだけ闇で営業やっている」「なんで遠方から通勤するあの子はテレワークで、私は通勤なんだ」こんな声が至るところで聞こえてくる。

人は明確に期間を設定されるとその期間を有意義に使おうとするし、設定が曖昧だと自己都合で「無視」する脱落者がでてくる。
脱落者は自己都合や利益を優先する傾向があるが、これが囚人のジレンマや前述した最終選考と同じで自身が損をするならまだ別の話だが、真面目に休業している人たちがバカを見て、抜け駆けする人間が得をする構図が成り立ってしまっている。結果的に社会・国民を分断してしまっているのだ。

社会・国民を分断する自粛は許せない

一体いつまでこういう状況が続くのだろう。
学校イベントはことごとく中止。昨日、次女の運動会の中止も決定した。僕の趣味のマラソン関連も昨年に引き続き全部中止。

そりゃもうみんな限界である。
公に一律で自粛期間を示しづらいのは100歩譲ってわかってやろう。そりゃ、僕らなんかよりはるかに問題が起こったときの責任の重みが違う。

しかし自粛期間中で様々な制限を受入れている国民にとってかけがえのない楽しみとなる「イベント」については「この方法でやりましょう!」と明確に国、または地方自治体が発信してほしいものである。イベントは人生の思い出として記憶に深く刻まれる。特に子どもの保育園や学校のイベントは人生で一度きりのものだってある。募集型企画イベントを自粛するのはまだわかる。それも100歩譲ってだけど。

しかし既に普段から学校や保育園で大勢の子どもを預かって体育もお遊戯もそして室内で授業もやっているのに学校行事となったら中止だ?もう意味わからんよ。運動会なんてのは外でやるし、グランドに一家族二人制限で入れたらいいだけである。一年経っても、まだこれをやってはいけないほど感染防止指針がないの?来場者はマスクした上でフェイスシールドをして飛沫対策徹底するとか、できる方法を示せばいいのでは?

なんで保育園の運動会ごときが対策ができないのに世界の運動大会(五輪)は徹底できるってなるのさ。
国民の理解が得られないのはこういうとこやって気づかないと。

僕は保育園の運動会を中止する必要は全くなかったと思う。去年は仕方ないと理解した。でも今年はこれは納得できない。

と、まぁ完全な愚痴記事になってしまったが、noteなので批判を怖れず叫ばせてもらいました。今日、早朝から小1長女と散歩しながらそんな愚痴をダラダラと聞いてもらった。

長女「もう1年なるん?それは長いなぁ。じゃあそろそろ皆がいーっぱい力を合わせてコロナをやっつけなあかんな」って。

そやな、みんなでやっつけよっか。

育児から教わったこと

一生に一度しかないイベントに関しては国が実施推進アナウンスすべき。
4年に1度も重要だが、同じように子ども達にとっては貴重な経験である。

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