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保育園の運動会が教えてくれた「みんな一緒に」の明と暗。そして僕は今日も「みんな一緒に」を求めるという…

諸秋の候、先週の土曜日。
次女と長男の運動会が万全のコロナ対策の下に無事開催され、

ワイワイ
キャーキャー

と大盛り上がりをみせ 一幕を閉じた。

一週間経った今でも余韻に浸れるほどに濃密だった一日をふり返って、今からドヤ顔ベースで話させて頂きたい。


今年は、前年と違って一家族から参加できる観覧者数も特に制限されなかったため、家族揃ってのイベント参加となった。

一体いつぶりになるのだろう。

久々にイベントに参加する高揚感をどうしても抑えきれずに、前日からカメラ撮影の準備に余念がなかった。

ビデオカメラは三脚固定でズーム操作は長女担当ね。

一眼レフカメラはパパで、スマホはママの担当。

メモリカード残量の確認に、前日から100%充電完了。手振れ補正はセットしておこう。予備電池は念のために持って行こうか。

そうだね、そうしよう。
と、家族一丸でまるで遠出の旅行かのように躍起になって出かけて参りました。

10時15分開門

秋とは思えないほどの炎天の下に集まった観衆を前にして、運動会が始まろうとしている。詰めかけた観客達の興奮が熱気となり、それが充満する会場。

親バカ撮影のベストポジションを求めて開門と同時に陣取り合戦の死闘を繰り広げた大人たちの尋常ではない真剣さと、想像を絶する緊張感が空間を支配していた。

10時25分
いよいよ子ども達の入場行進が始まった。

この時に受けた恍惚感こそが一週間たった今でも脳裏に焼き付いて忘れられない。
高性能カメラで残した写真よりもそれはもう鮮明に。

 「みぎ!ひだり!みぎひだり!」

保育士の掛け声と笛音に合わせて、園児がおともだちと足並み揃えて行進する。

普段は我が道を行き、行き過ぎてUターンして戻ってきてしまうほどに自由を謳歌する我が子も必死にみんなと歩調を合わせる。

おおお.. とウナり声をあげる観衆一同

たかだか入場行進で想像以上の反響だ。
グラウンドは再び熱気に包まれた。

そして園長先生の長くて有り難いだろうお話が終わると、ついに待ち望んだ本編が幕を開けた。

音楽に合わせた軽やかなダンス、
みんなでつなぐバトンリレー、
手作りお神輿みこしをかついで縦横無尽に駆け回る「だんじり祭」。

イベントの楽しさもさることながら、園児が周囲に溶け込みながらする全員プレーの一体感が楽しかったというのもあったかもしれない。子どもたちの一挙手一投足に目が奪われたのだ。

観衆はパシャリパシャリと入念に我が子を写真におさめる。
その様はもう、芸能人の結婚会見で、二人が笑顔で向き合うたびにフラッシュを散発させるマスメディアの方なんじゃないのか疑うレベルで非常に怖い。
もう、みんな久々のイベントに取り憑かれてしまったとしか思えない。

言いようの無い、一つの「世界」みたいなものが出来上がった。
それに全員で浸った。

なるほど、これが「絆」か。
たしかに斜に構えてモノを見る僕であっても言葉で表現できない何か熱いものを感じた。

学校教育は、僕たちが育ってきた昭和から令和にかけてそれなりに変化はしているが、「みんなと一緒に」
「みんなで力をあわせて」
を美徳とみなし、それをルールや規範として内面にインストールする点では根本的には変わっていない。

とくに学校で刷り込まれる「みんなと一緒に」や「みんなで力をあわせて」には、

勝負に負けても、
成果が不十分でも、
非効率でも、

それ自体に価値や美徳があるように僕たちは教わり、次第に当たり前のように「みんなで」にふさわしい振る舞いに染まっていく。

多少頭が悪かろうが、共同体にうまく適応できる、もしくは共同体に寄り添って協力や支持を得られる人が重宝される。

でも日々、小競り合いをしてるよね

世にある大半の営利企業の職場は「成長」や「生き残り」に必死で、成果主義や個人主義や効率主義が叫ばれる。
であるから、同期、同僚、先輩、後輩の社員同士においても日々、小競り合いを続けている。

つまるところ職場では学校教育で教わったような「みんな幸せ」「みんな平等」「みんなで楽しむ」とはいかないのだ。

そのような理念を表向きにスローガンで掲げる会社はたまに見かけることもあるが、かといって同期と一緒に昇進、昇給を約束してくれるような甘ったるい会社の存在を僕は一度たりとも耳にしたことがないし知る由もない。

つまりは、大なり小なりあったとしても入社して以降は「ポスト」を求めた椅子取り合戦が自ずと始まる世界なのだ。

いや、でもこれは職場に限ったことではない。振り返ってみれば大半の人が、物心ついた時から毎日のように周りの人間と小競り合いを続けている。

その小競り合いはパラダイムシフトで「足の速さ」の時もあれば「素行の悪さ」や「頭の良さ」の時もあり、いつしか「大学名」や「恋愛経験」になる。
そして「人脈」になり「仕事」になり「車」になり「賃貸か持ち家か」「収入」「昇進」。

それと、えーと、なんだ。
SNSでは「フォロワー数」に「いいね数」か。

戦いが終わり、また他の軸での戦いが始まる。そうだ、僕たちは戦い続ける生物なのだ。

自分はもう、承認欲求なんてないさ。
会社でのポジション取りには興味がない。他の人にどう思われるかなんて何も関係ない。自分の生活の満足感だけを追求して生きていくんだー!

こんなことを声高に説いてドヤ顔をしているようなアドラー心理学を真に悟ったかのようにふるまう男性、オレ。

自分ではすこぶるカッコいい意見を口にしていると思いこんでいる。

君たちのような承認欲求のエゴの塊とは違うのだよ、ガッハッハーと悦に入ったつもりでいても、よく考えればそれもしっかりと「マウント」をとっているのである。

本当にそう思っているなら、誰にも言わなくて良い。
ただ組織が重んじるルールから静かに逸脱し、周りから非難されても、後ろ指さされても巧妙にわざわざアピールなどせずにそっと生きれば良い。

それを読者を置いてけぼりにしているおぞましい光景に物怖じもせずに、noteに3000文字も4000文字も顔を真っ赤にしてタイピングして「承認欲求なんて不要だ!」と主張しているのだ。

「承認欲求なんてない自分」は、「何かと承認欲求を求める人」に比べて偉いんだぞと、新手で卑怯な手口を操ってるだけのオレなのだ。

まさに、もうこれをマウントと呼ばずに何と呼ぶのだ。

結局のところ生きている限り、誰もが戦いから逃れることができない。

脳内では、常に「何か」に対しての承認欲求が猛威を振るっているし、そしてそれを人前では巧妙に隠しているにすぎないだけで、戦いは形を変えながらずっと同じことを繰り返しているのだ。

あぁ話が脱線した。

そうだ、職場の話だった。
話をグイーっと戻そう。

複雑な戦いが渦巻いている戦場せんじょうと化した職場で、僕たちは効率を下げることが分かっていてもどうしても「みんなで一緒に」というルールを自分も尊重している姿勢を示さなければならない場面がやってくる。

忘れたころに学校教育で刷り込まれた
「みんなで一緒に」
がヒョイと顔を出すのだ。

思い出してみてほしい。

今から現場に加わっても負担が減らせるわけでも、効率が良くなるわけでもないのに、それでも現場に加わって「やっている感」を出さなければならない場面。

重いものを協力して持っているフリをしたりしちゃってね。合流が遅れれば遅れるほど、少しでも和に溶け込もうと大げさにしかめっ面して持たなければならなかったりする。
たまに「うわっ、重っ」とか声高に発しながら。

あるいは、主催者が部長の「参加は任意です」とアナウンスされた会合の案内がきた場面。
本当は出席率7割ぐらいを期待されているものであると解釈し、ぬかりなく参加して「やっている感」を出しておくことが重要だと思ってニコっと笑って参加に○をしてしまったりして。

あるいは、テレワークで仕事が早く終わって、堂々と昼寝をしているときに電話が鳴って「まずい」と感じる場面。

明らかに寝起きの「かすれ声」にならないように、声のトーンを意識的にあげて仕事をやっているような体裁を整えて、「やっている感」を出しておかなければならなかったりしたり。

 「みんなで」というルールが浸透している職場や現場では、どうしても「みんなで」というルールを自分も尊重している姿勢を示さなければならなくなるのだ。

「みんな一緒」はいいことなのか

さてさて、結論を急ごう。

保育園の運動会で全員プレーの一体感に魅了された。冒頭にも書いたとおり、あの時の恍惚感は今でも忘れられない。

真剣になって皆で一丸となって取り組む事でしか味わえない感情というものがこの世にはあって、それは当事者だけではなく見る人をも魅了する素敵なものであると僕は思っている。

ここまで長文を読んできてくれたレアな読者様には、僕の主張を間違って捉えて欲しくない。

僕がモヤっとしているのは
勝負に負けても、
成果が不十分でも、
非効率でも、
「みんなで頑張ることに価値がある」
という日本の古来からの集団社会における習わしである。

「沈没船ジョーク」というものをご存知だろうか。各国の国民性を表したジョークとして、おもしろおかしく表現したものである。

簡単にご紹介すると世界各国の人々が乗った豪華客船が沈没しかかっている中、乗客の数に比べて脱出ボートの数は足りずに、船長は乗客を海に飛び込ませようとする。さて、船長が各国の人にどのような言葉を使って飛び込ませるかというものである。

アメリカ人に対して・・・「飛び込めばヒーローになれますよ」
ロシア人に対して・・・「海にウォッカのビンが流れていますよ」
イタリア人に対して・・・「海で美女が泳いでいますよ」
フランス人に対して・・・「決して海には飛び込まないで下さい」
イギリス人に対して・・・「紳士はこういう時に海に飛び込むものです」
ドイツ人に対して・・・「規則ですので海に飛び込んでください」
中国人に対して・・・「おいしい食材(魚)が泳いでますよ」
日本人に対して・・・「みなさんはもう飛び込みましたよ!!」

このジョークで揶揄されているとおり日本は「みんな一緒で」
意識が非常に強い国である。

本当かどうかは分からないが、よく言われている原因に、古くからの農耕社会があげられる。共同で稲作を行う日本人にとって、和を乱したり集団からはみ出ることは死活問題であった。

だから納得しているかどうかは関係なく集団で決めたことに異議申し立てを行う「空気を読まない人」を処罰・非難する傾向があったのだ。

で、僕の思うみんな一緒の問題点は何か。

「みんなでがんばる」を拠り所にすればするほど、「なんで自分だけ」「なんであいつだけ」という不満がうまれるのだ。

コロナで抜けがけして得しているやつはいないか?

テレワークで自分だけ楽をしようとしてるやつはいないか?

SNSでたくさんのフォロワー抱えて問題発言するようなやつはいないか?

という生産性を度外視した相互監視社会になるだけである。

世の中にあるものには、どんなに誰かが叩かれていても、一方が完全に悪で、もう一方が完全に正義ということはほとんどない。

だから大衆の意見と反対であろうと、誰かに監視されていようとかまわない。
他者の視線に関わりなく、正しくありたいと願い、迷いながらも自分なりの「善い」と思える行動を心がけることが農耕社会から抜け出す唯一の方法なのではないかな、と思う。

………なげーよ。

朝からなぜか語りたいモードに突入してしまって、エンジン全開で5000文字も熱く語ってきたが、それでも今日の自分が一番欲しがっているのは、農耕社会から脱出に向けた適切な修行の手順などではなく、この記事を見たあなたが哀れみの気持ちから押してくれる

たった一つの「スキ」

というみんなからの承認欲求であるという……

いつまで経っても修行の足らないダメ人間だなぁ、と感じた朝でした。

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