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「本当オタク思考」を捨てたい

最近、自分の好きなジャンルについて語ることが恐ろしい。
今、私は「肩身の狭いオタク」だ。

中学生くらいのころから、私はいわゆるオタクになったと思う。
ちょうどBL(ボーイズラブ)というものに
ズブズブとはまったのもそのくらいだった。

けれど今はそのころのように精力的に好きなジャンルを追うことは
できていないと思う。
そしてそんな自分を「ダメなオタク」だと思っている。

今日はどうしてそんな考えに至ってしまっているのかを
これから自分がどんなオタクでありたいか、を
真面目に考察してみた。

全てを追うことこそ本当のオタク思考

いつからかはわからないが、
「そのジャンルを全て追わなければ本当に好きとは言えない」
という考え方にプレッシャーを感じるようになってしまった。

社会人になってからというもの、
アニメを毎週きちんと見たり、ゲームを徹夜でクリアしたり、
好きな漫画を一気読みしてみたりする機会が格段に減った。

もちろん全ての人たちが「本当オタク思考」を
持っているわけではないことは分かっているし、
私自身もそういった人たちをいやだと思ったことはない。

だが、「イナゴ(流行りものにとびつき閲覧数や評価数を満たそうとするタイプのオタクをこう皮肉った)」、「にわか」といった言葉を必要以上に恐れている自分がいる。

多種メディアへの広がり

1つのジャンルでも、テレビ・ラジオ・CD・ゲームなど
多くのメディアに広がるものは増えている。

もちろん好きなジャンルにはたくさん儲かってほしいし、
いろんなメディアに広がってたくさんの人に愛されてほしい。

だけど広がりを見せれば見せるほど、
全てを把握することは難しくなっていく。
この全てを把握することが大変、という部分と
全てを知らなければ語ってはいけない、という強迫観念が合わさって
私は新ジャンルに踏み込むことさえためらってしまうのだ・・・。

全てを追う気がないならその程度なのか?

本当に好きならば、何を置いても追うでしょ、と
いわれてしまえばそれはそれまでで、反論はできない。
お金にも時間にも限りはあって、何かほかのものと天秤にかけたときに、
勝てない程度、と言われればそうなのかもしれない。

でも、そのジャンルの○○が好きだ。
というのはあってもいいよね?
オタクの好きも多様化していると思うし、だからこそ
様々なジャンルが様々な手法、メディアで1人でも多くの人に
楽しんでもらおうとしてるとも言える。

結局は自分の気持ちの問題だよね

結局のところ私の中に自分に対する「本当オタク思考」が存在するから
「全てを知らない自分が語るのはおこがましいだろ」という
考えに至ってしまうのかもしれない。
最終的には自分の考え方や気持ちの持ち方の問題だ。

好きに語ればいい。
批判されても別にいい。
そう割り切ってしまえばいいんだよなあ。

でもできれば同じものを好きな同士と楽しく語りたいし、
妄想を共有しあってたくさんの萌えを享受したい。
そう思うと批判されたくない恐怖と
認められたい承認欲求の谷間で何もできないオタクに
なっているだけだなあと思う。

私は自分で自分自身を「肩身の狭いオタク」にしている。
そういうことだろう。

これからの私は「純粋なオタク」になりたい

私の思う「純粋なオタク」は、好きなものを好きなように楽しむ。
人の目を気にしない、ということだ。
(けっして不純なことを考えないということではないので、あしからず)

ちなみに人の目を気にしないとは、マナーを守らないとか
非常識なことをするとかそういう意味でもないので、
誤解がないように書いておく。

このノートはある意味リハビリだ。
好きなものについて語ったり触れたりして、
自分への「本当オタク思考」を取り除いていきたい。

どんなオタクであるべきかなんてない!!
好きだから好きやねん!!!!!
それでいいよね。

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