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金木犀が降る夜の名前

 少年の妹は、わずか四つでこの世を去った。
 死というものがまだよく理解出来なかった少年だったが、この先自分が生きていく中で、あの小さな足で追いかけて来る愛らしい瞳が映す世界に、もう関わることができないのだということを漠然と感じていた。
 妹が冷たくなった日の早朝、湿った空気に悲しみが注がれて、朝日は美しくきらめいた。白い布に包まれた少年の妹は、父親の太い腕に抱かれて葬列の先頭を遠く進んでいった。葬列は村中を粛々と歩き回り、村の三方を囲む山々に何度も礼拝を捧げる。
 やがて虚ろな昼が過ぎ、太陽が山の向こうへ落ちるころ、妹の亡骸は山へと運ばれる。村が信仰する黒い山の、中腹に住む魔法使いの下へ。
 五つに満たず亡くなった子は、魔法使いが弔いを引き受ける。それが少年の住む村に数多ある掟の一つだった。
 少年は、魔法使いについて母親に尋ねたことがあった。すると母親は、何か大きな禁を犯すことを恐れるような口ぶりで声を落とし、少年の耳元で己の知っていることだけを教えた。
「小さな子供が亡くなった後、その体を、昔からのやり方で山へ還してくれる人よ。」
 「昔からのやり方」という部分に、母親は無垢な息子に感づかれない程度の侮蔑を込めた。けれどその詳しい内容は言わなかった。知らなかったのだ。
魔法使いの話をするとき、村人は決まって忌々しいものを見たような顔になって、わざとらしく声を潜めた。そして色とりどりの、思い思いのおぞましい尾ひれをつけた噂話を水が流れるように口からこぼすのだった。
「幼い体を悪しき神々の供物にしているんじゃないか。」とか。
「近頃雨もないのに川の水が濁るのは、あいつのやり方がおかしいからだ。」とか。
「引き受けた死体を、夜な夜な少しずつ食べているんだ。」とか!
 少年は妹の葬列の最後尾を母親と歩きながら、村人から聞いた魔法使いの噂を思い出していた。そうして目の覚めるような怒りが、胸に渦巻いていくのを感じた。少年は生まれてから十回の雨季と花季を経験したが、大人たちの噂話を聞くには純粋すぎた。噂を根っから信じていた少年は、湧き上がる憤怒を身に湛え、妹を食われてたまるかと身に余る正義感を負った。
 そして日没後、村の男衆のみで構成された葬列が、妹を送るために山へ出発したとき、少年は禁じられていた言いつけを破り、密かに彼らの後を追った。すべては幼くして死んだ妹の魂が、せめて安らかに眠れるようにするため。まだ短い歩幅で、男たちの乱暴な足音をなぞった。
 魔法使いの住む山は、村の古い言葉で「黒い水源」を意味する名前で呼ばれる。常緑樹の暗い葉で覆われた山肌に、村の生命線ともいえる沢を抱いていたからだ。その沢に沿うようにして、村の男たちは山を歩いた。彼らの鼻先をときおり、金木犀の強い香りが掠めた。
 山は中腹が抉れたような形をしていて、そこには散ることのない金木犀が絶えず咲き乱れていた。麓にある村からは手前の木々に遮られて見ることはかなわないが、ひとたび山に足を踏み入れれば、暮れの薄暗がりにボウと浮かぶ、花の房を点々と認めることができる。燃えることをやめた炎のような、その怪しい萱草色の花房は、山の深きに潜るにつれてだんだんと数を増やしていくのであった。
 魔法使いの家は山の中腹で、金木犀の枝に埋もれるようにして建っていた。
 男衆が魔法使いの家へたどり着いたころ、空には夜の始まりを告げる星々が輝きはじめていた。葬列に灯された三つの明りが、木々の隙間で厳めしく揺れている。少年はその明りからつかず離れずの茂みに身を潜めた。
 噎せ返るほどの金木犀の香りが、魔法使いの家を取り巻いていた。森に溶け込みそうな黒い屋根が、葬列の明りにほのかに照らされて、少年の場所からかろうじて確認できた。
家の前に佇む蔦を編んで形作られた門の下に、全身を分厚いローブで覆われた人影が、男衆の到着を待っていた。
(あれが、魔法使い……。)
 少年は暗がりからじっと目を凝らした。背丈は、相対する村の男たちに引けを取らないくらいに見えた。その身にまとう法衣のように黒いローブは風にも揺れぬほど重たく、目深にかぶったフードからは髪の一本すら見えない。
 男衆の列から少年の父が、魔法使いの前に歩み出る。そして清潔な布に包まれた娘の骸を、ローブの人影に手渡した。そして彼らは二言三言、少年までは聞こえない低い声で言葉を交わすと、重々しい足取りで道を引き返し始めた。
 足音が強い香りをまとった風に遠のき、やがて聞こえなくなると、少年はそっと魔法使いの家の様子を伺った。風の強まる門の下には既に人影はなく、黒い屋根の窓には明りが灯っていた。
 少年は恐る恐る茂みから這い出て、忍び足で家の裏手にある硝子窓へ近づき、中を覗きこんだ。
 雑然とした部屋が少年の目に入る。その部屋は、空間のほとんどが古びた蔵書によって埋め尽くされて、足の踏み場もないように見えた。文字を習ったことのない少年には、何の役に立つ部屋なのか見当がつかない。
 奥にある扉の隙間から、魔法使いの灯した明りが細い金色の筋となって、語られることのない文字の列を浮かび上がらせた。その金色の一筋が、魔法使いによって揺れ、また遮られ、現れたりするのを見ながら、少年は腰のポケットをきつく握りしめた。
 ポケットの中には、彼の父親が、唯一彼に与えた物である短剣が眠っていた。村の男たちは、自分の息子が六回目の花季を迎えた時、将来良い働き手になれるようお守りの短剣を贈るのだ。少年は、父親からもらったその短剣が、たとえ通過儀礼のための偽物だったとしても、この世界で最も鋭い剣だと信じて疑わなかった。
 窓からの侵入を考えた少年は、深呼吸一つして、目の前の硝子窓をそっと押してみる。しかし案の定窓には閂がかけられていて、開きそうになかった。冷たい汗が滲む少年の背中を、夜風が撫でる。意識を酩酊させるかのような痛烈な金木犀の香りに、胸焼けするようだった。
 そのせいで彼は、背後から伸ばされた手に気がつかなかった。
「何を、している。」
 窓枠を掴んでいた手が長い指に絡めとられ、憎悪と憤懣で飾った低い声が頭に降り注いだ。地の底から沸き上がったような声に、少年は総毛立ち、肌は、ぞわりと粟立った。
 強引に手を引かれ、振り返った先に立っていたのは、妹の亡骸を受け取ったあのローブに覆われた魔法使いだった。少年は息を飲んだ。目と鼻の先で見上げた魔法使いは気味が悪いほど背が高く、暗い夜空を背に、少年に覆いかぶさってくる様は、昔話に語られる、湖の陰鬱な幽霊のようだった。
「誰が、お前のような子供が、ここへ来ることを許した。」
 目深に被ったフードの奥に、さらに黒い紗の面を垂らした魔法使いの、亡者のごとき囁きに少年は茫然となる。
魔法使いは、掴んだ少年の手を捻りあげた。少年が呻く。その痛みに我に返った少年は、空いた手を腰のポケットに滑り込ませた。そして奥歯を噛みながら短剣を引き抜き、魔法使いに向けて振り払った。
 少年の荒々しい太刀筋にのけぞった魔法使いは、その拍子に掴んでいた手首を放した。
 少年はすかさず自由になった両手で剣を構えなおし、その切っ先を真っ直ぐに魔法使いの喉元へ定めようとした。しかし手首に残る痛みの余韻、金木犀の亡霊が放つ威圧に、手は震え、抱えていたはずの怒りはいつの間にか恐れへと姿を変えていた。
 けれど少年はこのまま逃げることはできない。生き急ぐように早鐘を打つ心臓を持て余しながら、少年は魔法使いの、黒い紗に隠された瞳を睨んだ。
 魔法使いは、少年が剣を構えた時に、それが村の風習によって作られた形だけの剣だと気づいていた。そして偽物を突きつけてまで、こうも必死な瞳で、少年がこちらを睨む理由は何なのか考えた。魔法使いは少年の言葉を待った。
 少年は、消えかけた怒りに恐れの薪をくべて、再び燃え上がらせようと、浅い呼吸で声を張り上げた。
「い……妹を返せ!」
 高ぶった感情は、少年の心を蝕んでいく。
「妹は、お前に食われるために生まれてきたんじゃない!」
 少年の脳裏を、小さな妹が駆けた草の揺らぎが、暮れる太陽を追った二つの指先が、閃いた。悲鳴のような少年の訴えは、夜の木の葉にこだまして、風に消える。
 魔法使いと少年の間に長い沈黙が下りた。
「……あの子は、君の妹か。」
 魔法使いが沈黙の端にそっと言葉を重ねた。その声は、先ほど少年の体を芯まで震えあがらせたおぞましい声ではなく、不確かで輪郭のぼやけた、鈍い声だった。例えば遠い川のせせらぎとか、木漏れ日に透ける葉の擦れとか、今この森を満たす金木犀の香りにさえ溶けそうな、魔法使い自身の声だった。
「悪かったね。」
 そう言うと、魔法使いは重いフードを脱ぎ、顔を隠していた紗を外した。「村のチビどもの、度が過ぎた悪戯かと思ったんだ。」
紗の下から現れたのは、銀灰色の長い髪を一つに束ね、くすんだ緑の目をした青年だった。「今日は風が強い。ここまで来るのは堪えただろう。」
 少年は、手に構えた剣を直ぐには下ろせなかった。魔法使いの髪や目の、村の人間とは異なる美しい色が少年の目を奪った。けれどそんなことよりも、魔法使いの傾げた首や声の、たおやかな振る舞いが、自分たちと寸分変わらぬ人であることに少年は驚いていた。少年は村で魔法使いの話をたくさん耳にしたが、その容貌は誰の口からも聞いたことがなかったのだ。
 口を開けたままなかなか剣を下ろさない少年を見て、魔法使いは眉尻を下げた。
「君の妹を引き取ったのは、弔うためで、食べたりしない。悪い神様にも捧げない。あの子が迷わず行くべき場所へ、行けるよう金木犀に案内を頼むんだよ。」
 少年の強張った両腕がゆっくりと下がっていく。魔法使いはそれを見て少し微笑んだ。
「おいで、中へお入り。」
 
 少年は、こんな暗い時間にこれほどの蝋燭が灯された家を見たことがなかった。部屋の隅にまで行き渡る温かい色彩の揺れを、少年は物珍しそうに眺めながら、あることに気がついた。惜しみなく蝋燭の灯された家の中には、客人のための物というのが、一つもないように見えたのだ。それはこの家に魔法使い以外が、足を踏み入れることはないからだった。
 天井まである蜂蜜色の棚には、乾燥させた薬草の入った瓶と、繊細な模様の食器、それから黄ばんだ紙の束が乱雑に置かれている。足元には少年の読めない文字で書かれた分厚い書籍が詰まれ、家のいたるところで小さな塔を作っていた。そしてそういった塔の傍には、必ずと言っていいほど椅子があった。魔法使いの家には、いくつもの不揃いな椅子があった。それらは、魔法使いが読み古した書物の埃を静かに払い落としたり、窓の外で夕日が空を焼いていく音を聞きながら物思いに耽ったりするためにある。
 けれど少年が通された、奥の部屋にある広い机に向かっている椅子は、一つだけだった。
「一人なのか。」
 ローブを脱ぎ、近くにあった椅子になおざりに引っ掛ける魔法使いに、少年は尋ねた。
「もうずっと一人。君は? 妹が亡くなったのに、こんな所にいて平気なの。」
「父さんは村の皆と夜通し酒を飲む。母さんには、兄さんがついてる。おれはいつも余計な事ばかりしているから、またかって、誰も気にしないよ。」
「……そう。」
 魔法使いは少年を、机に向かうたった一つの椅子に座らせ「少し待っておいで。」と言ってついたての向こうへ行ってしまった。少年は無意識に、煌々と明りの灯る部屋に妹の姿を探したが、それらしきものはどこにもなかった。居心地の悪い静けさを、硝子窓を小突く風と、ついたての向こうから軽く聞こえる、食器のぶつかり合う音が少し和らげる。
 魔法使いが再びついたてから姿を現したとき、芳しい香りの紅茶を二杯手にしていた。その一杯を少年の前に差し出すと、もう一杯を自分の口へ運んだ。
「どうぞ。」
 カップに注がれた紅茶は、水面に金木犀の花が散らされていて、空気に湯気をたゆたわせていた。注意深く中を覗き込むと、茶と絡み合いながら気品を損なわない程度に、金木犀が香った。口に含めば花の香りは捉えどころなく鼻に抜けて、ひっそりとした渋みが口に残る桂花茶は、魔法使いのお気に入りだった。実際少年は、その後も何度か魔法使いの家を訪れることになるのだが、魔法使いが桂花茶以外の茶を口にしているのを見たことはなかった。
 魔法使いの喉がゆっくりと嚥下したのを確認すると、少年は恐る恐る両手でカップを包みこみ、彼のために用意された花茶を口にした。飲みこんだ熱い紅茶が腹の底へ落ちたとき、少年は自分の体が冷え切っていたことに気づいた。
 少年がカップの中身を空にするまでに、魔法使いは飲みかけの茶を机に置き家の中を歩き回って、何か大きな瓶を抱えて裏口から出て行ったり、隣の部屋で布の入った箱をひっくり返したりしていた。おかげで少年は、遣い方の分からない気を遣って、桂花茶から沸き立つ温かな白い吐息を乱し、崩したりするような、愚かな沈黙の埋め方をしないで済んだ。少年は手元から浮き上がった湯気が、つやつやした天井の梁のところまでいって、徐に解けていくのを最後の一口を飲み終わるまでぼんやりと眺めた。
 魔法使いは、少年が机の前で手持ち無沙汰にしているのに気づくと、再びローブを被り、少年を手招きした。
「君も行こう。」
 そう言って少年に、先ほど箱の中から引っ張り出した外套を羽織らせた。
「どこへ。」
 魔法使いは少年の手を取ると、裏口の扉を大きく開いた。
「君の妹の所へ。」
 夜に向けて開かれた扉から、冷えた風が家の中にどっと流れこんだ。少年の黴臭い外套がはためき、家の中に灯された蝋燭が一つ残らず吹き消される。
 冷えた夜気の中で、金木犀はその香りを強めていった。風が雲を払い、藍色の空から星明りが降る。少年は目が慣れるまで、魔法使いの黒い手袋に覆われた指を握りしめていた。そして少年の目が、宵闇の中に暗く燃える金木犀の花房を認められるようになるころ、魔法使いは少年の手を取ったまま、裏庭の一本道を静かに歩き始めた。
 
 純粋なまま命を失った体は、夜に巣食うあらゆる穢れを引き寄せる。だから、幼い子供の死というのは、村人にとって、触れてはならない穢れだった。浄化せねばならないものだった。死臭、腐臭、体が土へ還るにおい。それらを流し、清めるものが必要だった。
 村人は、浄化の香りを求めて山を見上げた。「黒い水源」と呼ばれる山からは古来より、絶えることない芳醇な花の香りが流れ、村を包んでいた。
香りを辿った先にあったのは、金色の花を雨のように咲かす、金木犀の森だった。その中で最も高く、大きく枝葉を伸ばした金木犀の根元を、遠い昔、村人は浄化の地と定めたのだった。

 今、二人の前には空を覆うほど大きく成長した金木犀が聳え立っている。
 夜によって洗練された花の香りが、少年の上にも、魔法使いの上にも降り注いでいた。幹を辿った根元に横たえられた、白い布の中で眠る、少年の妹の上にも、優しい香りが降り積もっていった。
 少年の指は力なく魔法使いの手を握る。その瞳は乾き、浅い穴に横たえられた妹の亡骸を凝視していた。
 少年の手を一度強く握って、指を解いた魔法使いは、懐から小さな盃と、小瓶を取り出した。小瓶は透明な液体で満たされていて、七色の星明りを微かに照り返している。
 魔法使いが小瓶の口を開け、中身の半分を、金木犀の根元に向かって――少年の妹の被る布にも届くように――散らした。辺りに甘い酒の匂いがふっと広がり、流れていった。放たれた滴は、夜風に煽られながら、音もなく地面へ辿りついた。魔法使いはそれを見届けると、残りの半分を、手にしていた盃に注いだ。
 盃が少年に差し出された。
「これはもう廃れてしまった風習だけれど、誰かを失った夜は、全員で同じものを分け合うことで、故人を偲ぶんだ。」
 少年はぼんやりとした目つきで、盃に手を伸ばした。
「今夜、君とこの盃を分け合えることを、嬉しく思うよ。」
 少年はいつか妹にしてやったように、そっと盃に唇をつけた。金木犀の香りと同じ味の神酒が、少年の渇いた唇を潤した。喉が焼けつき、頭が痺れる感覚に顔をしかめ、少年はまだほとんど残ったままの盃を、魔法使いに返す。魔法使いが盃を受け取り、その残りを一息に飲み下した時、少年の目の前を鮮やかな一陣の風が吹き抜けた。
 夜の風ではない。記憶の網目をすり抜け、まばゆい光の中にある小さな思い出の粒子を手繰り寄せ、少年の眼前に展開する、これは魔法の風だ。
 
 少年は、手を伸ばせば触れることすらできそうな満天の夜空の下に立っている。
 雨季が終わり、空気は心地よく澄みわたり、星明りで互いの顔も見えた。
 ぐずって眠らない妹を連れて、こっそり家を抜けだしたのだ。
 村と山は暗夜の帳に寝静まり、全天と彼らだけが瞳を爛々と輝かせ、風に吹かれている。
 夜の帳は、金木犀の匂いだった。その夜も、今夜も、彼らが生まれるずっと前から。
 この香りが届くところは、「黒い水源」から守られている。彼らはそう教わって育った。
 村外れの礼拝堂前は、二人だけの秘密の場所だった。
 妹は、白い爪の先で星を示し、名前を与えた。
 星と星の輝きの、一端と一端を結び、星座を作った。
 足元の草原は、鈴の音のようにそよぎ、二人の潜めた笑い声を隠してくれていた。
 
 風は少年に、在りし日の二人を見せた。少年自身の目線から、また妹の目線から、あるいはそのどちらでもない、二人を包んでいた空気として。
 それは前の新月の日のことだった。けれど、妹の死によって未来と切り離された、遠い過去のことでもあった。妹と共に失った心の欠片があまりに大きく、少年はすっかり忘れていたのだ。あの夜自らがどれだけ幸せだったか。何かを失った悲しみに、かつての清福まで絶望に包んでしまうのは、あまりに虚しい。魔法使いと分けあった盃が、少年にそのことを思い出させた。
 金木犀の雨が降る。風に身を預けて花を落とす。涙の代わりに花を落とす。落ちた花は降り積もり、眠る少女を隠していく。
 少年の両目が熱を帯び、やがて大粒の涙を零しはじめた。
「あの子の名前は、何と言う?」
 少年の傍らで、魔法使いが尋ねる。
「イタナト。」
「夜と星に愛された、いい名前だね。」
「そう、そうなんだ。イタナトは、星を見つけるのが上手だった。おれには見えない星まで、はっきりと見えていた。ずっと、同じ星空が見てみたいと、思っていた。」
 少年は涙を拭うことをしなかった。妹が触れた、美しい世界の片鱗がきらめき瞬いていくのを、そして妹の体が夕焼けと同じ色に溺れていくのをじっと見ていた。
「おれも、ここで眠りたい。」
「ここにはもう、君の妹はいないよ。」
 魔法使いは、これまで村が作り上げてきたであろう生死観に基づいて、そう答えた。古い考え方かもしれないな、とも思いながら。まだこの思想が村に流布しているのなら、魔法使いが忌み嫌われるようなことはなく、村外れの礼拝堂には足繁く村人が通っているはずであった。
 魔法使いの言葉を聞いた少年の横顔に、失望や落胆の色は現れなかった。
「イタナトは、金木犀に導かれて、どこへ行くんだ。」
「彼女の行くべきところへ行く。母親のもとかもしれない、山を下りる川のもとかもしれない。君は彼女の記憶に何を見た? 彼女が宝物にしたかった記憶が、きっと彼女の目指すものだ。」
少年は頬を濡らしたまま、深い星空を仰いだ。天上の紺に瞬く星間を、いつか妹が結んだ線が蘇る。それらは不完全だった。少年には見えない星で作られた欠落のある星座だった。
 少年は、両手で掬いあげるようにして、夜と金木犀の雨を抱いた。ずっと強張っていたその相好が、柔らかく崩れていった。
「じゃあ、この夜はイタナトだ。」
 魔法使いは彼の淡い笑みを、その時初めて目にした。


 空が白んできた頃、魔法使いは少年を山の麓まで送り届けた。そして最後に「暗くなってから山に入るのはお止し。」と戒めた。
 夜通し静かに泣いた少年の目は赤く、少し腫れていた。腫れた目で魔法使いを見上げ、少年も別れの言葉を口にしようとして、留まった。思いの外、言うべきことが多いことに気がついたのだ。偽物であったとしても、剣を向けてしまったことへの詫びの言葉や、妹の弔いを見届けることができた礼、それから何より、自分はまたあの金木犀の下で星を眺めたいと思ったこと。あの場所で仰いだ夜が、最も妹の見ていたものに近いような気がしたのだ。
 上手く話せるだろうか。
 言葉が出てこず下を向く少年に、魔法使いが語りかけた。
「君が初めに覗いた部屋は、天文に関する図書を集めた部屋なんだ。あの家の屋根裏には、古いけど立派な望遠鏡があってね、今なお使い手を待ち望んでいる。」
 少年が声の方を向くと、困ったように眉尻を下げて微笑む魔法使いがいた。夜明けに向けて弱まる風に、その髪が空と同じ色を映してたなびいていた。
「君が、使ってくれないかな。」
 少年の頬に、さっと赤みが差した。驚きと興奮、拒絶に怯えた安堵の混ざった表情を、少年は隠さなかった。最後には、年相応の勝気な笑みを魔法使いに返し、さっと踵を回らすと、家へ向かう道を駆け出していった。
 少年の背中が、黎明の青い暗がりに溶けて見えなくなったのを見届けると、魔法使いは夜明けに似合わない重いフードを深く被った。随分前に村へ降りてきた時より、村に流れる金木犀の香りが弱くなっているのを感じながら、村に背を向けて歩き出した。金木犀の森へと、帰っていった。

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