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森のがっこうかわうち(仮)プロジェクトをはじめます。

こういうのって、もっとおしゃれに告知した方がいいんだよな、とは思いつつ、どうしても、長文で、暑苦しくなってしまう性分。
諦めて、どうして、どういうことをしたいのか、というのを、このnoteでこってり、書きたいと思います。

このnoteで伝えたいことはいたって単純で、School for life Compathに参加したら素晴らしく良かったから、福島でもやろうよ!という話です。
それがどうして5000字超えてしまうのか…汗
とりあえず、飽きるところまでお付き合いいただければ幸いです。

School for life Compathについてはこちら。

School for life Compathへ行った3つの動機

世の中への憤りとか戸惑いとか諦めとか

私が子どもを産んだのは、2019年。子どもを妊娠した時、「優しいお母さんになりたいな」というのが、最初に思ったこと。私は割と仕事とかもしっかりやりたいし、意見とかもはっきり言う方だけど、子どもが生まれたら丸くなって、おおらかでのんびりしたママになりたい。なれるのではと淡い想いを抱いていました。
で、産んでみてどうなったか。
理想の真逆になりました。
そりゃ、出産・育児で体力メタメタ、ホルモンバランスガタガタ、情緒は安定せず、イライラとメソメソを行ったり来たり。
でも、そういう「産後クライシス」的な、自分のコンディションを抜きにしても、世の中に対して、はぁ?何それ?馬鹿じゃないの?と憤ることが増えました。
1つは、「子どもを産んだ母親」は、社会のしわ寄せをすべて押し付けられている存在だと知ったこと。
「母親がちゃんとしないと子どもがおかしくなる」という呪いの言葉で溢れ、「母親神話」を盾に助けてくれる人はおらず、今まで積み上げたものはすべて奪われ、それなのに、ヒマな特権階級だと思われている。
子どもを産むまで、「自由」と「孤独」はセットだと思っていました。「自由がないのに孤独」とは、独房に入っているような状態であり、それはほとんど刑罰で、まっとうに生きていれば味わうはずのないもの。
しかし、母親とはこの独房状態なのだと産んで初めて気づきました。
命がけで、人生で一番の痛みを乗り越えて、命を生み出して、その結果、独房に入れられる。これは何?
まあ、私は、出産の直前に里帰り先の実家が台風19号で被災したり、生後2ヶ月でコロナ禍が始まったりと特殊な事情はありました。でも、コロナを理由にここまで子育て関係の行政サービスが縮小しているのは理解できない。子育ては不要不急なんですね、産んですみませんでした、という感じ。
宗教二世が問題になった昨年、カルト宗教の入り口は、幼い子を持つ母親の孤独の受け皿が多いと聞きました。そうなってしまう気持ち、すごくわかる。

2つ目は、やはり子ども。自分の来し方を振り返って、今の世の中を見まわして、子どもに堂々と、「素敵な世界へようこそ」と言えるかと考えた時、正直、言えない。
反出生主義とかも、それなりの支持を得る時代です。
産むこと、生きることが、絶対的善だと言い切ることは、私にはできない。
でも、この年になって気づくのは、社会とは、究極的には「賭け」によって動いているということ。
自分が信じる方に、「賭け」て、賭けた方を正解にしていく。そういう生き方をしている人によって、世の中は作られている。
つまり子どもを産むということは、「この世は生きるに値する場」という方に、賭けてしまったということ。
賭けてしまった以上は、勝つために、「この世を生きるに値する場」にしていくために、本気で考えて、行動していくしかないんじゃないかと思うようになりました。

こんな感じで、思考がぐちゃぐちゃになっている自分を一旦、落ち着いて整理したいと、「余白の時間」というワードに惹かれたというのが、動機の一つ目。
それから、「対話」「民主主義の学校」「デンマーク社会」といったキーワードに、「この世は生きるに値する場」にしていくためのヒントがあるのではという予感。これが二つ目の動機。
で、三つ目の動機はまた全然毛色の違うもの。

三つ目の動機

子どもを産む前、私は、福島県職員でした。福島県相双地方の地域振興を担う仕事をしていました。相双地方とは、相馬双葉地方。つまり全域が、東日本大震災と原発事故の被災地と呼ばれる地域です。
私が福島県庁に入ったのは、復興のために働きたかったからなので、ここでの仕事はとてもやりがいがありました。観光や地域振興がメインの仕事だったので、震災後、あれほど大変なことがあっても、前向きに地域を盛り上げていこうと奮闘する人たちと取り組む仕事は、本当に学びが多く、楽しかった。やりがいの塊でした。その中でも特に力を入れていたのは、この地域ならではの「学び」のツアーでした。
私は、震災時とその後数年は東京にいたので、メディアを通した断片的な情報しか知りません。だから、あの時の衝撃映像は映画的に受け止めていたし、そのあと「悲劇の物語」として「被災地」が消費されていくのを、見ていました。でも、実家に帰れば、そこには普通の暮らしがあるし、その日常の中に線量計やフレコンバックがある。このあたりのギャップ。
相双地方で、いろんな人に会って話を聞いて、一緒に仕事をしていく中で、私は「現実」というものの捉え方を学んだ気がするのです。
メディアが魅せたい「悲劇」「感動」の物語。あるいは、ネットの衝撃的な陰謀論。ぼーっとしていると、そういったものが、ものすごい強度で、「現実」であると知覚されてしまいます。それらは、100%の嘘ではない、ほんの数ミリの事実を含んでいたりする。でも、物事をある一面から切り取ったに過ぎない。
現実はもっと、複雑で、地味で、難しい。
でも、メディアが作った、薄っぺらで、大げさなBGMが演出する「感動」とは違う、じんわりとした、温度と湿度と質量がある「衝撃」を与えてくる。
こういったことを肌身に沁みて理解できたのは、原発事故という大災害の最先端の場所で、そこに生きる人たちと仕事ができたことの最大の財産だと思っています。
こういった、私が得た「学び」を、もっといろんな人にも伝えたい。広めたい。それに、今の時代に必要な「学び」なんじゃないか。そう思って、試行錯誤しながらツアーの仕事をしていました。

しかし、妊娠出産を経て、職場復帰したら、ひどいことになっていました。
不在の間、後任ができるようにと段取りをつけていたのに、こんな高度なことは君しかできないから、と放置されていたことが判明。え?ここって私の個人事務所なの?笑
その間にコロナ禍になり、状況も変わり、苦労しながら再構築したものの、新しく来た上司にこんなのやらなくていいとポイっと捨てられました。
仮にも組織としてやっていた仕事。検証した上で意味のない仕事とされたのならば諦めますが、以前の上司には高評価を受けていました。それが、なんもわかっていない上司の腹積もり一つで、なくされてしまうなんて・・・。
こういう組織体質に嫌気がさして、他にもいろいろがっかり来て辞めました。
でも、辞めたものの、この地での「学び」を伝えたいという想いは、なかなか消えません。
で、辞めてからもいろいろ考えていました。
ツアーというやり方に関しては、日帰りや一泊二泊じゃ何も伝わらないなと、常々思っていました。
この地で感じることは、非常に複雑で重いため、咀嚼するのに時間がかかる。
それに、短期間だとどうしても、詰込みやキリトリになってしまい、メディア的な文脈を抜けきれない。もっとじっくり、この地域に向き合って学ぶ場が欲しいのではないか、と感じていました。
Compathの記事を見て、フォルケホイスコーレについてぼんやりと知るにつれ強くなる、「これだ」という直感。それが三つ目の動機です。

School for life Compathから帰って醸成されたもの

Compathがどうだったのか、というところまで書くともう長すぎるので、割愛します。

以前書いたこちらのnoteを置いておきますね。

結論として、めちゃくちゃよかった。
だから、これを福島でもやりたいって強く思いました。

School for life Compathの様子

School for life Compathを通して、上の三つの動機がどう醸成されていったか。

まず、一つ目の「ぐちゃぐちゃの思考を整理する」。
これはもう、最高でしたね。産後のママは、子どもを預けてフォルケホイスコーレに行けるように制度化すべきです。これぞ本当の育休中のリスキリング!笑
数年ぶりに、「母親」以外の自分で他者と話ができたのがまず楽しかった。
そして、「母親が弱音を吐いてはいけない」「出産前の女性に、産後が辛いなんて言うべきじゃない」的な思い込みはぶん投げて、素直につらいと話して、それをきちんと聞いてもらえたこと。産後相談でよくある、その場しのぎの「傾聴」ってやつとは全然違う。ちゃんと、心で受け止めてもらっている感覚。北の住まい設計社のカフェで感じた解放感と安らぎは、本当に大きなワンシーンとして残っています。
そして、ここにいた一週間で、ぐちゃぐちゃだった思考が、澱が沈むように落ち着き、ヨガや整体も受けたので体調も整い、間違いなくあらゆるコンディションがよくなりました。
帰ってからは、子どもと一緒にいる時間が苦痛じゃなくなっていた。行ってよかったというよりは、行かなかったら今頃どうなっちゃってたんだろうと不安になるくらい、いい時間を過ごせました。

二つ目の動機、「この世は生きるに値する場」にしていくためのヒント。
これは、帰ってからも関連書籍を読み漁り、学べば学ぶほど、「これだ」と思いました。

私は最初、「民主主義の学校」と、「余白の時間」が、どうしても結び付かなかった。「民主主義の学校」というと、意識高い人たちが、唾飛ばしながら激論交わすイメージ。「余白の時間」というと、疲れて弱った人が、木陰でのんびり昼寝して回復するイメージ。どちらかと言うと真逆。でも、結果としてはこの2つはちゃんと結びついていました。
Compathでは、「わたしの小さな問いから社会が変わる」と掲げています。
自分の内面をクリアにして、深めていくこと。
それは、他者との対話によって深まっていく。
そして、対話をしていく中で、ありたい社会がみえてくる。
「私」を重ね合わせていくと、そこに「共」が立ち現れる。
そして、そのありたい社会を作っていくという、次の段階が生まれてくる。
そうやって立ち現れていくものこそ、本当の民主主義なのだと気づきました。

社会への不満を語ると、「もう出馬するしかないんじゃない?」と、言われます。
でも、それは違うなーと。
で、なんでそれが違うかを突き詰めて考えると、結局政治家は支持母体の代表なんですよね。
経団連とか宗教とか、圧力団体の意向には逆らえない。
これは、裏を返すと「市民」という支持母体がないことと表裏の関係だと思うんです。
デンマークでは、フォルケホイスコーレの卒業生が政治家になることもあるとのこと。
その辺りのシステムはもっと勉強しないとわかりませんが、ヨーロッパの政治家と日本の政治家のランクが違うように見えるのは、このあたりに理由があるんじゃないかと思うのです。
これは壮大な話になってきますが、フォルケホイスコーレを通して、普通の市民が政治家の支持母体になるような、そういうシステムを作っていくことができたら、それは大きなインパクトになると思います。

デンマークが完璧な社会だとはもちろん思っていません。
でも、日本の今のどん詰まりを打破するには、この方向性しかないと確信しています。
日本に最初にデンマークを紹介したのは内村鑑三。あのころ、輝く瞳で西洋文明を日本に伝えた人たちが、日本に持ち込むべきと考えたのは、デンマークが体現しているような、本当の意味での「民主主義」だったと思うのです。
結果として、産業とか経済とかそっちばかり輸入されて、本当の意味での民主主義は、日本にはいまだに根付いてはいない。
ここのピースを埋めない限り、日本はいつでも戦前のような状況に逆戻りしかねないと感じます。

そして三つ目の、東日本大震災・原発事故被災地からの「学び」。
ここにフォルケホイスコーレがあるということが、ものすごく大きなインパクトを生むのではないかという感覚は、いまだに「直観」としか説明できないのがもどかしいのですが、個人的には確信を持っています。
私は、東川町で過ごしながら、フォルケホイスコーレをやるとしたら、阿武隈山系、やっぱり川内村かなと感じていました。
フォルケホイスコーレは、とにかくゆっくり過ごして、自分自身と向き合う、内省を深める、ゆったり、ヒュッゲに過ごすことが大切。私にとってそれができる場所は川内村なのです。
矛盾しているようですが、川内村でゆったり一週間過ごしたら、それだけでもいい。原発事故の話を聞いたり、伝承施設行ったりしなくてもいいのではないかとすら思っています。
そういったことを一切しなくても、かつて原発事故で全村非難した村が、今はこんな風になっている、それだけでも、学ぶことが大きいし、他ではできない学びなのではないかと思うのです。

森のがっこうかわうち(仮)で何がしたいのか

そんなもやもやを抱えながら、志賀風夏さんに相談したら、自分のカフェを会場にしていいよ、と快諾いただきました。
そして、「森のようちえん」的なことを川内村でしたいと考えているという石田さんを紹介してくれました。
「森のようちえん」もデンマーク発祥の育児スタイル。
私もCompathの参加者に教えてもらって、子どもに体験させたいと思っていたコンテンツでした。
二人とも、やりたいとは思っていても、最初の一歩も踏み出し方が分からないという状態。
ならば一緒に、とりあえず小さく試してみようよと企画したのが、今回のイベントです。(ふう、やっとたどりついた。)

私の立場から書いたので、母親目線になっていますが、もちろん、母親対象というわけではありませんよ。
大人なら、だれでも参加できるという間口の広さが、フォルケホイスコーレの魅力です。

実現のためにやらなければいけないこと、学ばなければいけないことはいろいろありますが、それはそれとして、とりあえず実践してみよう。
「川内村」という場所で、村のコンテンツを使って、どんなことができるのか、試してみたいと考えています。
そんな会なので、特に気張らず、一体何を企んでいるのか覗いてみるか、という感覚で来てもらえると幸いです。

予行練習の様子

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