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心地よい人間関係

Compathに参加してみた

北海道東川町にある、日本のフォルケホイスコーレ、Compathに参加してきました。
Compathとは?フォルケホイスコーレとは?については、こちらをごらんください。

このnoteでは、その感想をつらつらと、書いていこうと思います。
(長文だよ)


フラフープ

「で、あんた北海道まで行って、何を得たの?」と、聞かれたら、「フラフープを回せるようになった」と答えるだろう。
私は、フラフープを回せない人生だった。
だから、美瑛の道の駅で、一緒にドライブしていたMちゃん(6歳)に「フラフープしよう!」と、言われた時には、返事に窮してしまった。
(回すのは2回が限界なんだよな…)
Mちゃんは無邪気にフラフープを渡してくる。
「こうやってね、身体を捻って回すんだよ」と、上手なお手本を見せてくれる。
(まぁ、すぐ落としても、それはそれで笑いになるよね)とか思いながら、思い切って回す。
あれ?落ちない。大きな輪は、私の腰で、遠心力を発揮して、ぐるぐる回る。
え?うそ?落ちないの?
フラフープは、永遠を感じさせるほど、私の腰で安定していた。
それは、30年以上生きてきて、はじめての感覚だった。
フラフープを回せる人にとっては、つまらないことだろう。
でも、私にとっては、「フラフープを回せない」という思い込みを打破する、象徴的な瞬間だったように思う。

経緯

「べき」と「どうせ」の内在化

「べき」や「どうせ」でがんじがらめになって、動けないでいる自分に自覚はあった。

・子どもを産んだら、女性は自分のことを後回しにするべき。
・コロナに罹らないためなら、あらゆることを犠牲にするべき。
・仕事は辛い思いを飲み込んで対価をもらうもの。理不尽は耐えてしがみつくべき。
違和感を感じながらも、内在化してしまうあらゆる社会の空気。

・どうせ、他者は自分の有用な部分しか求めていない。
・どうせ、自分の考えを理解してくれる人は滅多にいない。
・どうせ、ステイタスや努力・能力を剥がした自分に価値はない。
生育歴で受けてきた傷やトラウマの積み重ねで、知らず知らずのうちに積み上がっていく自己無価値感。

卑屈な思い込みと言われれば、そうかもしれない。
しかし、人生の中で深く内在化した「べき」や「どうせ」は、思い込みだと分かっていても、言葉で言うほど簡単には解けない。

人生は、本当はもっと、自由で、感覚的で、野放図なものなはず。
そう頭では分かっていても、現実の私は目の前のタスクに埋もれていく。
自由な人生を歩める人は、生まれながらに恵まれていたり、才能があったりする「特別な人」なのだ。自分とは違うと諦めて、灰色の日常に淡々と染まっていく。
だんだんと、自分が疲れてるのかどうかの感覚すら麻痺していく。

気楽にいきなよと人は言う。
しかし、「気楽」もまた才能だと思う。
「気楽」の才がない者にとって、中途半端な休息は、罪悪感しか得られない。
そんなどん詰まりで、ふと見た「余白の時間」というワードに引っ張られ、私は3年ぶりに飛行機に乗った。

罪悪感を振り切れないまま

私には2歳半の息子がいる。
当初は連れてこようかと思ったが、育休を取ってくれた夫に任せて、一人で参加した。
このことへの批判のワードはいくらでも思いつく。
行かない理由はごまんとある。
キャンセルすべきか、直前までずっと悩んでいた。
でも、行った。
行くからには何かを得なければという気負いと、それでもまだ残る罪悪感を引っ張ったまま、プログラムが始まった。

感情にフォーカスする

ゆるい、というのが第一印象。
私が主催側だったら、絶対焦っちゃうなぁ…と思うくらいゆるい。
ゆるーく、自分の感情にフォーカスしていく。
参加者も、今の感情や感覚に基づいた自己紹介をするため、その人の年齢も肩書きもわからない。
わからないから、判断がなくなる。
ラベルを剥がした飾らない本質、みたいな素の部分に、触れることができる。
そこから始まる会話は、心地よいものだった。
マウント、腹の探り合い、美辞麗句…
ビジネスから始まる会話につきまとう、そういうものが一切ない、素の会話。
その人の人間性や哲学、トラウマやニーズまで、ダイレクトに現れる。
これが本当の意味での個性なのだと思う。

そういう、素の個性を持ち寄ってなお、気持ちよく共同生活していくにはどうすればいいのか?それを学ぶ場がCompathだった。

心地よい人間関係の練習場

民主主義の学校

フォルケホイスコーレは「民主主義の学校」らしい。
そう聞くと、なんだか難しい。
しかし、体感してみての感想は、「心地よい人間関係の練習場」だった。

「空気」ベースのコミュニケーション

日本でスタンダードなコミュニケーションは、「空気」ベースだ。
その場の「空気」を読み合って、その「正解」にコミットする。
(「空気」は「世間」「みんな」「ふつう」とも置き換えられる。)
個人のニーズはそこでなんの役割も果たさない。
「空気」に沿う時は満たされるし、沿わない時は抑圧する。
それができることが「大人」とされ、そのゴールに向けて、長い学校生活で調練される。
その結果、「空気」が読めない人や、「空気」から外れたニーズは黙殺される。

このコミュニケーションが快適な人もいるだろう。
「空気」を外しさえしなければ、あらゆるメリットを得ることができる。金銭、所属感、承認…
しかしそれは、「空気」と自分を合わせるために不断の努力することと裏返しの関係だ。
なんらかの事情で「空気」から外れざるを得ない時は、あっという間に村八分にあう。存在すら否定される。

「空気」の持つ性質は不安定だ。
・小さな要因で容易に変化する。
・常に正しいとは限らない(歴史が証明済)。
・大多数が違和感を持っていても声の大きい人に引きずられる。
そんなものにコミットし続ける努力の虚しさに、人はどこかで気づいてしまう。
しかし、圧倒的な「空気」の力に諦めて、生活を送っている。

「素の個性」を認め合うコミュニケーション

そうじゃないあり方があるのではないだろうか。
まずは、素の個性をお互いに出し合う。それを認め合う。
そんな関係性の中で、恐れずに互いのニーズを出し合う。
それぞれのニーズの落とし所を対話によって導き出す。
そんな人間関係のあり方を練習する場。
私にとってのCompathは、そんな場だった。

めんどくさいのは確かだ。
しかし、めんどくさくてもなお、私は快適さを感じた。
心地よいのだ。そういう関係性は。

相部屋

それを実感したのが相部屋。
参加前は、相部屋に対して、絶対に不快だろうと思っていた。
我慢と気遣いの連続で、帰る頃にはくたくたに疲れているだろうと。
しかし、実際は全くそんなことはなかった。
同じ部屋にいても、お互い自由にしていて、それでいて深い話もできる。
よく眠れたし、ただただ快適で楽しかった。
もちろん相部屋の2人がとてもユニークで楽しく、気負わずに過ごせる人だったというのはある。
しかし、「空気」優先のコミュニケーションの中では、同じメンバーでも、ここまで気楽には過ごせなかったと思う。

対話の前提

子どもの頃、ディベートの時間みたいなのが学校で少しだけあって、なんだかよくわからないまま終わったことを思い出す。
形だけ西洋の真似をしても、教室の前提が「空気」ベースだったら、結局は空気の読み合いになる。
まずは素の個性を出していいという前提がなければ、対話は生まれない。
だから、ゆるく互いの素を出すワークを最初にしていたのかと、あとから腑に落ちた。

体感するということ

さて、ここまで書いたことは、取り立てて新しいことではない。
昔から散々言われてきたことだ。
しかし、この理屈を知っている人はたくさんいたとしても、このコミュニケーションを社会で「体感」した人はどれだけいるだろうか?
学生時代はともかく、よっぽどのホワイト企業に勤めない限り、めったに体感できることではないと思う。

私自身は、こういうコミュニケーションに対して、「そうは言ってもそれは理想論」「自分達の生活とは関わりのない机上の空論」「学術書の中の世界」と捉えていた。
そんな「素の個性」ベースのコミュニケーションを、はじめて「体感」できた場が、Compathだった。

私には回せないと思っていたフラフープを回せたように、私とは無縁だと思っていた「素の個性」ベースのコミュニケーションができた。
この「体感」こそが、Compathの価値だと思う。
理念を教える場はたくさんあるが、体感できる場はなかなかない。

同志がいるということ

体感したところで、日本の圧倒的な「空気」ベースのコミュニケーションに対抗出来るかといえば、簡単ではない。
しかし、家族や友人など身の回りのところから、実践していくことは不可能ではない。
そういうコミュニティを自分の周りに作っていく人が増えれば、ゆっくり世界は変わっていく。
その先にはきっと、「空気」が内在化した思い込みに振り回されない、もっと自由で豊かな人生があるのではないだろうか。

ある人は、同じ時間を共にした参加者のことを、「同志」と表現した。
その響きはとてもしっくりくる。
自分1人で頑張っても孤独なだけだが、あちこちに散らばって行った「同志」が、どこかで頑張っているという心強さ。
だった8日で、そんな関係性が築ける、不思議な体験だった。

自分自身が宝物

別れの直前、Mちゃんのお母さんがシェアした素敵な会話が、みんなの心に響いた。
「ママの宝物はなに?」
「あなたや、○○や、○○だよ。」
「ママは宝物じゃないの?」
自分自身が宝物。
そんな感覚を持てるような人間関係、コミュニケーション、社会が欲しい。
それが私のニーズである。
そのための一歩を小さくても踏み出したいと思った。
そんな時間だった。

参加を考えている人へ

Compathの間口はかなり広い。
どんな人にも開かれている。
今回の参加者も、かなり多様だった。
人生にどん詰まっている人もいれば、ちょっと休息が欲しい人もいた。
その多様性がよかった。
それぞれ違う道のりを歩んできて、それぞれ違うフェーズにいる人たちだからこそ新しい視点を得ることができる。
だから、「こんな人が参加すべき」という想定はない。
しかし、ひとつだけ条件をつけるとしたら、一人で参加すべきだと思う。
子連れ参加はいい。でも、大人は一人で飛び込んだ方が、絶対に得られるものは大きいと思う。
もしピンとくる人がいれば、ひとりで、扉をたたいてみて欲しい。

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