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目の見えない人は世界をどう見ているのか

まえがきにあった目の見えないひとのヒトコト。

「そっちの見える世界の話も面白いねぇ!」

目の見える人にとって当たり前な感覚や世界観は、目の見えない人からすると別世界の「そっち」で、別物だけど、意味がわかると面白いものらしい。

ならば、私も「見えない人の世界も面白い!」と思いたい。というナゾの対抗意識を燃やして、本書を手に取りました。

著者の伊藤亜紗さんは美学と現代アートの専門家で、昔からの生物オタク。

自分と異なる体を持った存在のことを、実感として感じてみたい。(略)想像の中でその生きものに「変身」してみることなしにできません。

という強い願望が、視覚障害者がどう世界をみているかを理解したいという本書のお題につながっていきます。

意味に関して、見える人と見えない人のあいだに差異はあっても優劣はありません。(略)そこに生まれるのは、対等で、かつ差異を面白がる関係です。

見える人と見えない人という生物的に異なる2人をみて、その違いを面白がることで、私とあなたが抱く『意味』にも違いがあることに気づき、面白がれるようになることが、本書の1つのゴールなのかも、と私は感じました。

空間・感覚・運動・言葉・ユーモアという流れで、見えない人の世界との関わり方を覗いていくと、はっとさせられるヒトコトに出会います。

「大岡山は、やっぱり『山』なんですね」
「人の体に触ったときにそこが肩だとわかると、それにつながる手や頭が『見えて』くる」
(マッサージのプロがボルダリングに挑戦して)「マッサージに似ている!」
「回転寿司はロシアンルーレットだ」

とくに面白かったところは、見えない人の美術鑑賞。
水戸芸術館の現代美術センターで、年に1,2回開催している「セッション!」では、見えない人と見える人が一緒になって美術作品を鑑賞して回ります。みんなで作品の前に立ち、作品について語り合うのです。

(美術館の目の見える職員が印象派の展覧会で)「ここに湖があります」「あれ、よく見たら黄色い斑点があるから、これは野原ですね。」

野原が描かれているという情報の説明からでは得られなかった、見た人の経験に根ざした『意味』。それは単なる勘違いではなくて、「湖っぽい野原」であるという、印象派の本質をついた捉え方でした。

このストーリーを読んでいるときに、ふと今読んでいる別の本のヒトコトを思い出しました。

(エチオピアへ撮影旅行に行き、ガイドから説明を受け、著者の奥さんが)「あぁ、だまって!勘違いさせて!!!」と、こっそり僕に耳打ちしました。そうそう、旅の醍醐味は「勘違い」なのです。
(こといづ p.37より)

美術鑑賞も、旅も、初めて向き合う対象に、自分なりの意味付けをして解釈することに面白みがあるし、そこには正解となる情報がなくてもいい。(というより、ないほうがいい)

自分なりに見えていることを言葉にして、なんとか見えない人へ伝えようとすることで、正解をもとめがちな普段の武装を解除できる。旅も、自由に勘違いできるからこそ、自分なりの答えを楽しめる。

さらにもう一歩、踏み込みます。

重要なのは、ひとつの作品からさまざまな解釈が生まれる、というその多様性を確認することではありません。そうではなくて、他の人の言葉を聞いたうえで絵を見ると、本当にそのように見えてくるのです

ここまできたら、ほんとうの意味で「変身」できるようになります。
そうした他人の目でものをみる、という行為は、現代社会で求められる「自分だけの答えをみつける」ということにもつながっていくように思います。

他人のものの見方に「面白い」と感じるのは自分。そうした「面白い」を積み重ねていけば、「自分なりの面白い」は育っていくはず。

ついこないだ読んだ『13歳からのアート思考』と、いったりきたりして考えてみたら、いろんなミカタが増えてくるかもしれないなぁ。