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そもそもこの世は幻想でできている~「陰謀論」を信じるのではなく、「常識」を疑え

2024年という年は、我々が想像もしないようなスタートを切る事になってしまいました。
能登半島地震から1週間以上が過ぎ、被害の全容がまだつかめていない状態で、未だに安否不明の方々も大勢いらっしゃいます。

そんな中で、今回の災害にまつわる「陰謀論」と呼ばれるものが、SNSなどで騒がれるようになり、地震発生の翌日には岸田総理が、悪質な虚偽情報の流布について、「決して許されるものではありません」などとコメントしました。

問題となっているのは、往々にしてこういった災害などの際に真実の伝播を妨げ、また復興活動の足かせになる場合も多い為、万が一扱う際には慎重にならなければならないものについてです。

ただ、個人的な見解を言えば、世の中で「陰謀論」と呼ばれるものすべてが、ひとくくりに虚偽だデマだと否定はできない部分もあり、難しいところです。



◆「陰謀論」は扱いが難しい

実際、北朝鮮による日本人の拉致被害のように、90年代までずっと「陰謀論」だと言われ続けてきたケースもありました。

「陰謀」と「陰謀論」をごっちゃにするのも問題で、実際にあった陰謀、政治的策謀が過去に「陰謀論」とされながら、のちに事実として明るみに出たケースも少なくありません。

そのように情報が玉石混交、嘘も真実も混じっているからこそ、明らかに虚偽で安易な「陰謀論」も広まりやすいのではないかなと思います。

そもそも僕らが信じている「常識」だと思っているものも、それは「みんなが正しいものだと信じていることによって成り立っている普遍的な認識」であり、普遍的に通用する主観的な意見です。それは「正しいこと」ではなく、「正しいと思われていること」です。

◆”常識”と言われるもののほとんどが幻想

今の日本は資本主義という考え方で動いており、お金が社会を動かしている、あるいは支配していると言っても過言ではないでしょう。
ところが、お金というのは言わば単なる紙切れでしかなく、僕らがお金という概念、もしくは価値観を認め合い、信じて疑わない事で今の社会が成立しています。
最近注目を集めている電子マネー、仮想通貨やNFTに至っては、もはや目には見えないものなので、よりわかりやすいと思います。

つまり、私たちが目の前の事物に見いだす意味や価値は、はじめからあったのではありません。私たちが見ている世界は、言語もしくは記号によって切り分けられ、再構成された擬似的な現実にすぎません。

それらを総称したような言葉で「共同幻想」というものがあります。

人間が集団を形成するときに生み出されるもので、それらへの帰属を理解するための観念の事です。
例えば、人間同士の公的な関係。国家・法律・企業・経済・株式・組合 などもこれに当たります。
宗教は、個人の内面に収まる限りは自己の幻想にすぎませんが、教団を結成し、布教を開始すれば、共同幻想になります。

僕らが「常識」と呼んでいるものも、所詮はそんなものです。

◆インターネットがかえって知識不足や社会の分断を生む

インターネットが普及した事での弊害もあると思います。

他人の携帯やパソコンを覗いたことがある人ってほとんどいないと思いますが、SNSや検索サイトで表示されるものが人によって驚くほど異なっている事にお気づきでしょうか?
現在のインターネットを検索したときに出てくる情報は、すべてあなたが望んでいる、もしくは心地いい情報しか出てこないようになってしまっています。

これはGoogleなどの広告媒体側で、あなたの属性を推定して「ターゲティング(表示する広告の絞り込み)」をしたり、SNS側で表示するおすすめのアカウントを選別しているからです。

これにより起こるのが、「思考の単一化」です。
思考が単一化すると、自分が普段触れないような情報が出てきた場合に、それは嘘だと断定して思考を止めてしまうのです。
その結果、その他の情報はすべてシャットアウトし、今まで信じていたことがすべてと思い込むようになってしまうのです。

これにより、「陰謀論者」と呼ばれる人たちも、あるいはそうでない人たちさえも、自分が信じる情報以外を拒否し、同じ情報を信じる人同士でつながり、仲間意識を強くしていきます。
そうやって社会の分断が始まるのです。

つまり「陰謀論」をめぐる問題の本質は、真偽に関係なく、一方的に与えられた情報をただ鵜呑みにしてしまう事にあります。

例えば「誰か正解を教えて」と言って、教えてくれた人が悪い人だったらどうしますか?
現代の人々は(僕も含めてですが)、恵まれているが故に与えられることに慣れ過ぎている気がします。

◆噂話を信じる人との共通点

「陰謀論」と噂話というのは似ている部分があります。
「陰謀論」を信じる人も、噂話を信じる人も、必ずしも他人に流されたり意志が弱いとは限らず、実は正義感が強いタイプで、良い方向に物ごとを変えたいと思っている事が少なくありません。
だからこそ、あくまで善意で「陰謀論」を社会に広めようとします。

これが「陰謀論」をめぐり、社会が混乱する理由の一つです。

但し、噂話と同様に、インターネット上の情報の真偽・正確性を判断して、取捨選択、適切に反応できるように個人個人がリテラシーを持てばいいだけの話だと思います。

様々な意見はあって然り、「陰謀論」だってあっても良いと僕は思います。「陰謀論」自体が問題で、それらを法律で規制しようという動きがありますが、一方で検閲制度などの手段を用いて言論・表現を制限する事は言論統制となってしまい、特定の価値観や思想しか認めない、という非常に不自由な社会になってしまう極論であり、行き過ぎた考えです。

◆「陰謀論」を信じるのではなく、「常識」を疑う

各々で判断して、情報の取捨選択ができれば、「陰謀論」も「まあ、そういう意見もあるよね」と共感はしないまでも、過剰に封殺しようとまでは思いませんし、自分の意見はきちんと持っていればそれほど気にならないはずです。
逆に、知らない事実を「陰謀論」として安易に片づけないようになるでしょう。

時には「常識」というものも疑わしいことがあります。
僕の体感としては、子供のころに大人から「常識」と教わった事の大半は、今となっては覆されています。
したがって、僕にとっては「常識」も「陰謀論」もほぼ同価値の情報でしかありません。

例えばですが、盲目的に「陰謀論」を信じるのではなく、日頃から「常識」を疑うようにしていれば、判断を誤りにくくなるかもしれません。
他者から提示された安易な答えではなく、自分なりの答えを探し求めるのです。

みなさん、「常識」を疑い、真実は自分の中で見つけていきましょう。


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