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文披31題:Day4  アクアリウム

 ガラス越しの風景はとても退屈で、暗いばかりだった。ときおり、ゆらりと小さな光が横切っていくのを見るが、チョウチンアンコウの頭の先から揺れるものだと知っている。あれは獲物を誘うためのもので、誘われた魚がアンコウにぱくりと丸飲みにされる瞬間を見たときはたいそう興奮したものだ。
 けれど、そんな興奮するような出来事がいつも起こるわけではないから、たいがいは真っ暗な闇と、ガラスの向こうに揺れる影と闇の波間のようなものが見えるばかりだった。
「あー、もー、いーかげんにーどこかにいきたいよううううう」
 椅子の上でひっくり返り、足をばたつかせているのは栗色の巻き毛の女性だった。丸い眼鏡の奥の瞳は金緑色で、外に広がる真っ暗な世界に対して反抗するようにきらきらと輝いている。好奇心の塊、と評するようにくるくると目まぐるしく視線を動かしているが、その輝く瞳にはありありと「退屈」と書いてある。
『お師匠、諦めなよ。お師匠が反省しない限り、ここから出られないんだから』
「うぅぅぅぅ、うるさぁぁーーーいーーー! わかってるけど退屈なんだものーーー!」
『お師匠の声が一番うるさいんだよ……』
 ぺたりと黒い耳を伏せて、黒猫がぼやいている。
 深い、光も差さない海の底で、その室内は煌々と輝くランタンに照らされている。まるでチョウチンアンコウの光のようだ。おかげでたまに、大きなサメが口を開けてぶつかってきたりする。そんなことで驚く女性ではないが、室内で大惨事が起こるので心底やめてほしいと黒猫は思っていた。
 室内は、小さな研究室、と呼ばれるような場所だった。女性と黒猫のいる部屋のほかに、寝室とバスルームと炊事場があり、小さな家といっても差し支えないほどの設備だった。ただし、深海にあるということをのぞいて。
『仕方ないじゃないか、これがお師匠に与えられた罰なんだもの、お師匠のお師匠様はよくわかってるよね。こういうところにお師匠を閉じ込めとくのが、一番の薬だって。それに……いたっ』
 前足をなめながら黒猫がつぶやいていると、女性が視線も向けずに巻物を投げつけてきた。狙いたがわず眉間に当たった黒猫は、濁音の鳴き声をあげて抗議する。が、女性は明後日の方向を向いたまま、指に耳を突っ込んでいる。
 性悪魔法使いめ、ひっかいてやろうか。黒猫は隠していた爪を出してみたが、女性は黙って立ち上がると不意に黒猫を抱き上げた。不意をつかれた黒猫は、なす術もなくされるがままになった。
「聞こえない聞こえない聞こえなーい。うるさい使い魔のお小言はもうけっこうでーす。耳タコですぅぅぅ」
 抱き上げた黒猫の腹に顔をうずめてぐりぐりと押し付けながら、大きく息を吸う。いわゆる「猫吸い」と呼ばれる、猫好きにはたまらないストレス発散方法だが、されたほうはたまらない。
 じたばたと暴れ、やっとのことで解放された黒猫は、息をつきながら慌てて毛づくろいをする。涙目で必死な姿は哀れにもかわいらしくて、女性はにんまりと笑った。
「これに懲りたらお師匠様みたいにお小言を言わないことね!」
 毛を逆立ててにらんでくる黒猫に不敵に笑いながら指をびしっと突きつけると、今度は黒猫が反撃された。
 飛び掛かった黒猫は女性の顔面に張り付き、ひっかきはしないが衣服に爪をたてて離れない。ばたばたと暴れても、なかなか離れてはくれず、女性は息もできずにそのまま仰向けに倒れた。
 ばたーん、と大きな音と埃がたって倒れた拍子にぶつかった机の上に山積みにされていた本がばさばさと女性に落ちる。その頃には黒猫は女性から離れて身軽に女性が掛けていた椅子の上に優雅に座り、長い尻尾を揺らしていた。
『あーあ、せっかく片付けた? のにまた散らかったー。お師匠のせいだー』
 にやにや笑いで黒猫が女性に言う。日常茶飯事のやり取りに、「また負けたぁぁぁぁ」と女性が本の下で悔し気に呻いている。
『おとなしくしてたら戻してやるってお師匠のお師匠様に言われてるんでしょ? ちゃんと反省すればいいのに』
 言いながら黒猫はガラスの向こうの闇に視線を向けた。女性と同じ金緑色の瞳に映るのは深海の闇だが、闇の中ではなく、その向こう、遥かかなた海上にある女性と黒猫の祖国を見ていた。
 女性は仰向いたまま、口を開いた。金緑色の瞳はぼんやりとしていて、天井をただ映している。ぽつりと女性がこぼす。
「あたし、許されるのかなぁ」
『さぁ? お師匠のお師匠様に預かった領地ひとつ、実験で爆破して焦土と化したどころか何人もの命を奪ってるんだもの。簡単には許してもらえないだろうねぇ』
「だって! あれは最高峰で最大級の火力で爆破可能な兵器を作ってたんだよ!? あんな素晴らしいもの、試さずにはいられないじゃない!」
 がばりと起き上がり、女性は必至の形相で訴える。わかってるよ、と黒猫は応える。だよね!?と女性は瞳を輝かせて黒猫を見つめた。
 黒猫は知っている。この女性は魔法使いだ。ただし、真っ当ではない。炎の魔力を持ち、火薬と実験を愛し、その研究成果を美しく素晴らしいと信じてやまないままに突き進む生きた兵器のような魔法使いだ。
 狂っている、そう評されても仕方のない女だ。黒猫も、彼女のお師匠様も、十二分に承知していることだ。けれど一匹と一人は、この魔法使いを排除することは考えなかった。彼女の魔法も、彼女の研究も、彼女自身も、引き付けられるほどに強く美しいものだと考えていたからだ。
 だからこそ、大罪を犯した彼女は処刑されることもなく、深海の中に「幽閉」という形で罰を受けるだけになっている。
 黒猫の脳裏に、彼女のお師匠様の声がよみがえる。すまないね、と彼は謝っていた。
 雨の降る午後だった。罪の重さを、その償いを彼女が受けるべく待機する部屋に続く廊下の片隅で。黒猫は使い魔ということでいったん彼女のお師匠様のもとに戻され、監視下にあるときだった。
『私も、お前も、彼女の才能は素晴らしいと知っている。認めている。けれど、世の中はその素晴らしさを理解するには愚鈍にすぎるんだ。そして、彼女は取り繕うことを知らない。ただ己が欲望のままに、己の好奇心のままに突き進む。このままにしておけば、いずれ彼女は私でもかばいきれないほどの罪を押し付けられ、断罪されるだろう』
 だからこうしたのだよ、と語る彼は、その唇に笑みを浮かべていた。彼の表情を見て、ああ、彼は世界を憎んでいるのだなと黒猫は気づいた。黒猫は世界はどうでもよかったが、主である彼女が誰かに殺されるようなら世界のことは嫌いになっただろうし、暴れてやってもいいくらいには思っていたので彼に同意した。
『彼女は退屈を嫌うから、暗くて静かで刺激のない世界が一番の罰になるだろうし、それなら彼女も世間も納得するだろう。彼女の家は研究室ごと転移させておくから、ひとまず好きに過ごせるだろう。君には彼女のガス抜きをお願いしたいんだ』
 言われなくとも、と黒猫は思った。彼の言っていることは彼女の気質を考えればおのずと導き出されるものであったし、黒猫自身もそれくらいはしてやらなきゃなぁと考えていた。
 研究室をそのまま彼女が使えるようにしておく。その意味がわからない黒猫ではない。
『こちらから幽閉を解くことはできない。でも、いずれ、また相まみえるだろう。それを楽しみにしているよ』
 言いたいだけ言うと、彼は背を向けて歩いて行った。断罪を待つ彼女のもとに、黒猫に告げたのと同じことを、彼女に伝えるために。
『いいよ、面倒見てやるよ』
 応えると、背中越しにお師匠様は手を振った。気障なやつめと思ったが、彼女の敬愛するお師匠様であることに免じてやるかと黒猫は許してやることにしたのだった。
『さて、炎の魔法使い。いつまでぼんやりしているんだい』
 物思いから現実に目を向け、黒猫は自分の魔法使いに声をかける。ん?とあぐらをかいて見上げてくる魔法使いに、黒猫はにやりと笑いかける。
『退屈なんだろう? じゃあするべきことはひとつじゃないか』
「……まぁねぇ。興味もできることも、それくらいしかないしねぇ」
 どこかには、いきたいんだけどね、と黒猫を抱き上げると椅子に腰かけ、膝に乗せる。滑らかな毛並みを手のひらで味わいながら、二対の金緑色の目が深海の奥を射抜く。
「あの時の火力に負けないくらいのどでかい魔法が開発できたら、こんな海の底から抜け出すなんて、簡単よね」
 炎の魔法使いの金緑色の目に、赤い色が宿る。燃え盛る火花のように瞬くそれは、彼女の魔力の証だ。
『お師匠様の楔を破壊するのかい?』
「そうよー、研究に励みなさい。って言われたもの」
 うふふふふ、と奇妙な笑い声をあげながら、魔法使いはペンをとり、ノートに複雑な魔方陣を書き始める。魔法と火薬と兵器を掛け合わせたそれを、彼女は心底楽しんで開発している。
『……頑張ってね』
 大きくあくびをして、黒猫は膝の上で丸くなった。早く、この海に縛る鎖を壊して抜け出して、みんなをあっと言わせてやろう。
 楽しみだ、ともう一度あくびをして、黒猫は目を閉じた。同じ色の瞳が映すものは使い魔がゆえに共有されていて、そのわくわくとした心も流れ込んでくる。
 本当に楽しみだ。応援しているよ、ぼくの破壊の魔法使い。
 ガラスの水槽に閉じ込められた魔法使いと、黒猫の使い魔は、魚たちを見ているのか、はたまた見られているのか。海の底に閉じ込められているようで果たしてそれは正しいのか。誰も知らず、ただ彼女は魔法の完成に向けて着々と研究を進め、ペンを走らせる音だけが室内に響いていた。

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