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文披31題:Day23 ストロー

 暑いね、と言いながら手にした飲み物を手に取る。グラスにびっしりとついた水滴が、持ち手を滑らせそうになり、慌ててストローを支えた。
「暑いって言うと、余計暑く感じない?」
 かもなぁと返すと、だよねぇと気怠げに相づちが来る。少しのいらだちを感じたのは、疲れと暑さのせいだろう。人間、疲れてくると余裕がなくなってくる。
 かといってこの暑さに対する良い表現も思い浮かばず、沈黙が続いた。普段はお互いにおしゃべりなのに、今日は暑さでだらだらとした空気が漂い、口も同様に重くなった気がしている。
 沈黙が気まずいわけでもないが、暑さはどうにかならないかと思う。
「ねぇ、そういえばさ」
 不意に聞かれて顔を上げると、ハンカチで浮いた汗を抑えながら、恋人が言った。
「そっちの職場で、この間面白いもの作った、って言ってなかった?」
「……あー」
「見てみたいな、私」
 涼しくなるんでしょ?とにやりと笑われた。言外には、それ以外にも見てみたいものがあるんだろうなとわかる表情だ。
 ただ、少しのためらいがよぎったのは、アカデミーは自分の職場だ、ということだった。わざわざ恋人を職場に連れて行く趣味はない。
 もし、上司が暴走していたら。いつもならその暴走に巻き込まれることを考えて絶対に阻止するのだが、今日に限って、そこまで頭が回らなかった。
 すべて、夏のせいだ。聞かれて脳裏に浮かんだ、あの冷たいミストを吐き出すクマ。そこに行けば、涼しくなる。
 この暑さから抜け出すなら、それもいいかなと、それで頭はいっぱいになった。
「いいけど」
「じゃあ、決定ね!」
 輝くような笑顔で手を打たれて、まぁいいかと思った。
 それが失敗と言えば、失敗だったのだが。

「それで、アカデミーに来てみれば考えることは皆同じで、あまりの人混みに良い場所の確保ができずに、ミストにあたれず涼を得るためにここに来た、と」
「はい……」
 休日であるにも関わらず、この研究室の研究員たちは熱心すぎて今日も今日とて研究中だ。おかげでほどよい温度に調整された室内でひとまず暑さから避難できているため、素直に感謝せねばなるまい。
 今日は何の研究なのか、丸フラスコの中身を振ってはのぞくを繰り返している。何度振られても紫色と緑色の液体が一切混ざらずにいる様はなんとも不思議であり不気味だが、おそらく彼は「液体が混ざらない」ことを研究しているわけではあるまい。
 同じく研究員の花の魔法使いは、本日は論文のまとめの日らしい。文献片手に唸っている。徹夜の証であるクマは、常より薄い気がするが、どちらにせよ休日出勤している時点で休めてはいまい。
 助手という立場であるので「お休みは取ってください」と総務課からきちんと管理されている分そういった無理をする必要はないが、いつものこの風景を休日に見ると本当にこの仕事は終わりがないという意味で過酷だな。
 研究室に客人が訪れたのだから研究室の人間がもてなすべき場面ではある。だが、研究員は研究に夢中だし、通常の業務としてそういった役目は助手である自分がしていることだったのでいつも通り茶を準備して彼女に差し出した。
 ついでに、研究と論文に首ったけの研究員たちにも茶を用意する。労いの気持ちを込め、いつもより少しグレードの高い茶菓子をつけて。
「ごめんね、せっかく来たのに」
「いいのよ、遠目だけどクマも見られたし。それに、そのクマを作ったのが先生、なのよね?」
「そう、なんだけど……」
 きらきらした目で尋ねられて、口ごもりながらなんとかうなずいた。確かに、あのアカデミーの職員、学生たちに救いの手を差し伸べる装置を作ったのはこの研究室の責任者である魔法研究家、だ。
 でもそれ以上に奇行変人ぶりばかりが脳裏をよぎり、素直にうんと言えないところがつらい。
「あなたから聞いてたとおりね。すごく楽しいところ。そして、まさか先生の研究室にお邪魔することができるなんて。先生の研究は、まるで神話の世界にあったとされる伝承の再現を目指しているようだと思っていたのよ。それこそ、あのクマのミスト発生装置!!! あのクマの造型、魔法式の固定方法、そしてなんといってもあの媒体をあの位置に固定する発想!」
 両手を組み合わせて流れるような口ぶりで語り続ける彼女は、魔法研究家のファンだ。魔法の使えない魔法研究家が発表した論文をとても熱心に読んでいるし、見た目も麗しくて素晴らしいと絶賛している。
 それはこの研究室に就職する前からで、知ったときはあまりに驚きすぎて立ち上がり、そして何もないところで転んだ。
 研究室に行きたいと言い出すかと思ったが、「私は節度あるファン」と豪語しているとおり、先生に会わせろと言うほどでもなく、こちらが話さなければ積極的に聞き出そうとするわけでもないので気にしてはいなかった。
 研究室内の出来事は面白いので熱心に聞きたがったが、それはどの職場のことでも同じだったし、仕事にかかわらず自分の体験することで興味がありそうと思えば話を聞きたがっていただけだから関係なかった。
 今回も、研究室に行くことではなく、クマを見ることが目的だったため、あの人混みさえなければそのまま帰っただろう。  
 幸いにして上司は今のところ大きな奇行は見せていない。見目と研究のファンであるところの彼女に、突然踊り出したりするようなところが見られなければそれでいい。
「おや、君は魔法史に造詣が深いようだね?」
 丸フラスコの中身を振るのをやめて、上司がこちらを向いた。金色の目が興味深そうに見つめている。彼女は頬を染めて照れたようにはい、とうなずいた。
「中等部クラスの教師をしています。専門は魔法史でして」
「それなら納得がいく! あのクマの媒体を理解してくれるとはなおさらだ。嬉しいね!」
 丸フラスコを置いて勢いよく近づいてきた上司は彼女の手を握って嬉しそうに振っている。相変わらず情緒も遠慮もない怒濤の親密さ加減だ。
 勢いに目を白黒させる間に上司は棚から一冊の本を取り出しめくる。
「それならこの神話の話は知っているかね? 創世神話、ワシはこの部分から着想を得たのだよ!」
「ああ、有名な一説ですね。神は水辺の草を折り取ると息を世界に吹きかけた。その息吹により加護は広くゆき渡り、世界に芽吹いた生あるものに加護のひとつとして魔法が宿った、と」
「そうだ。その部分の訳はなかなかいろいろと興味深い説があってだな、アカデミーで話を始めると半日は椅子から立ち上がれないこともある!」
「それはとても楽しそうな話ですね!」
 私も参加してみたいです、と手を叩きながら彼女が上司と話に花を咲かせている。
「助手さん、いいの?」
 花の魔法使いの研究員が飲み干したグラスにお茶のお代わりを注いでいると、紅色の瞳がのぞきこんできた。じいっと、探るように見上げてくる。
 ちらと見ると、楽しそうに笑いながらぽんぽんと会話が飛び交っている。なかなか終わらないだろう。
「ああ、いいんですよ。彼女、先生のファンだって言ってたので」
「へー、そー、ほーん? 余裕だねぇ」
「まぁ……そうですねぇ。僕の素敵な彼女なんで」
 頬をかきながら言うと、「ノロケは暑くなるのでいりませんんん~」とストローで茶が吹きかけられた。

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