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[徒然]自己物語の再帰的語り直しによるアイデンティティの再構築について

僕らは世界に晒されている。近代化の進んだ超流動的な社会において、僕らは複数の社会圏を跨ぎながら生きている。

地元の小学校を出たら、市内の少し離れた中学校に進学する。それと同時にスポーツクラブにも通い始める。受験勉強を頑張ったから周りの友達とは離れて、進学校に進学する。部活はバスケ部で毎日真面目にバスケをやる。大学受験も頑張って、東京の大学に進学することになる。不安と期待が入り混じった東京生活。いろんな遊びを知って、渋谷でつるんでた仲間と夜遊びすることもよくあった。でもなんだかんだ、ちゃんと就活はして、今ではスーツを着て不動産の営業をしている。

これは現代社会を生きる誰かのありふれた話。僕らはみんな、ライフステージによっていろいろな社会圏を行き来して、その都度環境の変化に対応しなければいけない。

これは前近代の世界では、ほとんどありえない話だった。前近代社会では人々は共同体に埋め込まれていて、流動的な環境の変化にさらされることはなかった。

農民は農民。A街のパン屋さんはA街のパン屋さん。貴族は貴族。船乗りは船乗り。犬は犬。

この時代は「自分は何者か」という前提を、共同体への包摂によって簡単に調達することができた。

しかし、今はどうだろうか。

イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズが、近代化を「脱埋め込み化」と表現したように、僕らは地元の共同体に埋め込まれて生きることは少なくなった。地元から東京に出たり、地元の中でも、いろんな職についたりする。

つまり、僕らは常に「自分は何者か」というアイデンティティの問題にさらされるようになったのである。

複数の社会環境の中で、複数の断片的な自分を同時に演じている。

家では息子として振る舞い、大学ではムードメーカーとして振る舞い、ネット上では毒を吐く陰気な男となり、就活の時は健気な学生として振る舞うのだろう。

では、僕ら「個人」の同一性はどこにあるのだろうか。アイデンティティはバラバラじゃないか・・・!


ここでアイデンティティを唯一構築する方法がある。

それが「自分を再帰的に語り直す試み」である。

「再帰的」とは、「自分で自分を〜する」という意味で、ここでは"I talk about myself."といったイメージだろうか。

自分の人生について、自分がここにいる理由。自分の歴史を物語的に語ることが大切なのである。

物語的に自分のストーリーを語れば、バラバラの複数的な個人を一本の糸で繋げることができる。もちろん、自分を語る際に、過去の断片を意識的に選択して語ることになる。

だが、それでいいのだ。人間とは、断片的で可変的でありながら、どこか持続的で統一的なものだ。矛盾を孕んでいる。そういうものさ。

そして僕らは、再帰的に物語を語り続けることで、常にアイデンティティの危機に立ち向かうことができる。

自分がここにいる物語的根拠。どういう想いで、どういう経緯で、誰の影響で、何を目指して、なぜここにいるのか。もしくは、そこに行くのか。

現代人は、常に自己を語りつづけ、常に変化に対応してゆく。それはつまり、可変的な自分をマネジメントしながら、アイデンティティを確保してゆくプロセスとも言えるだろう。


今後、よりグローバル化は加速し、世界は人、モノ、カネ、あらゆるものが流動的に動くだろう。

そんな変化に一個人として耐えうる手段として、「自己物語の再帰的な語り直し」は存在する。

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