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【読書日誌】村上春樹『1973年のピンボール』
淡々と読んだ後、ある瞬間、突然恐ろしいほどの感動を覚えた。
彼のメタファーにひとつの疑念が宿った時、この小説の奥深さに気付けたような気がした。
最近、僕はものすごい勢いで村上春樹作品を読んでいる。とても彼の作品が好きなんだ。純粋に。
『風の歌を聴け』の後に、『ノルウェイの森』を読んだ。そして先日、『1973年のピンボール』を読み終えた。
はじめは、軽快な文体に触れながら、ただ雰囲気を楽しむような読み方をしていた。ただ読んでいるだけで不思議と心地いいのだから参ってしまう。
村上春樹の文章はリズムがいい。実際に村上もこう語っていたそうだ。
「何しろ七年ほど朝から晩までジャズの店をやってましたからね、頭のなかにはずっとエルヴィン・ジョーンズのハイハットが鳴ってるんですよね。」
エルヴィン・ジョーンズとは、アメリカのジャズミュージシャンでドラム奏者だ。マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンとも共演経験のあるドラマーだそう。
最近、これも村上春樹のせいで、ジャズについてあれこれと調べるようになってしまった。今や僕のApple Musicのプレイリストは、ジャズの名曲で溢れかえっているありさまだ。
とまあ、僕がジャズにハマっている話は置いておいて、小説の話に移ろう。
この『1973年のピンボール』で僕が面白いと思ったのが、死生観が巧みなメタファーによって表現されているところだ。
特に、「死んだ者」と「残された者」の関係性。
「残された者」がどう生きるのか。どう立ち直るのか。この小説には、たしかにどんよりとした物憂しい雰囲気が漂っているが、仄かに希望の光が存在していることもまた確かである。
もし希望がないとしたら、どうして、この小説の終わり方はこれほどまでに静かで、また同時に気怠く、そして美しいのか。
これはまさに「ささやかな希望」そのものではなかろうか。
下記が、この小説の最後のページの最後の段落だ。(なんとなくネタバレが嫌な人は読まないでおいてね)
バスのドアがパタンと閉まり、双子が窓から手を振った。何もかもが繰り返される……。僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の中で双子の残していった「ラバー・ソウル」を聴き、コーヒーを立てた。そして一日、窓の外を通り過ぎていく十一月の日曜日を眺めた。何もかもがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だった。
では、僕がこの小説に「ささやかな希望が存在する」と思う理由を述べてゆく。
まず、この小説の前半から中盤にかけて漂っている、そこはかとない鬱な雰囲気は、主人公の〈僕〉が「大切な人の死」から立ち直れていないことを表している。
僕は、この「大切な人」こそが、『ノルウェイの森』に出てくる「直子」ではないかと予想する。
実際に、物語の中盤、双子の女の子がビートルズの『ラバーソウル』というレコードを〈僕〉に無断で買ってくるシーンがある。
そして、そのレコードを聞いた〈僕〉は、突然不機嫌になる。
「こんなレコード買った覚えないぜ。」僕は驚いて叫んだ。
「ビートルズは嫌い?」
僕は黙っていた。
「残念ね。喜んでくれると思っていたの。」
「ごめんなさい。」
ではなぜ、〈僕〉はこれほどまでに不機嫌になったのか。
それは、ラバーソウルには『Norwegian Wood(ノルウェーの森)』という楽曲が収録されているから。この曲は、直子と関係性が深い曲で、直子を象徴するかのような楽曲でもある。
つまりこの小説は、直子が死んだ後に、〈僕〉が立ち直る過程を描いているのではないかと思うのだ。
『ノルウェイの森』を読んでもらえればわかるが、〈僕〉にとって直子がどれほどの存在だったのか。どれほど大切な人だったかのかが分かると思う。ぜひ読んでほしい。そしてコメントで感想を教えてほしい。
そして〈僕〉は一時期、ピンボールにのめり込む。とあるゲームセンターで15万点を叩き出すほどのやりこんでいたのだ。
ちなみにピンボールとは、こんな感じですかね。
![](https://assets.st-note.com/img/1641392818783-u6v6Fa86s1.jpg)
〈僕〉がピンボールにのめり込んだ理由を、「直子の死という現実から逃避するためである」と考えると、文中の言葉にも辻褄がつく。
暗い穴の中で過ごしたような気がする
これは、〈僕〉がピンボールに打ち込んでいるときに感じていたことだ。
つまり、主人公にとって、ピンボールというゲームに打ち込んだのは、単に楽しんでいたからではなく、直子の面影をピンボールに投射させていたからではないか。とも思うのだ。
実際に、とあるブログの考察文ではこう書いてあった。
『1973年のピンボール』の本筋とは、1970年に直子が死んだ悲しみを払拭できない「僕」が、1973年に彼女の幻影と遭遇し、ようやく彼女の死を受け入れて、悲しみを克服する物語だと言えるでしょう。
なるほど。確かにそう考えれば、あらゆることの辻褄があう。
・ゲームセンターが取り壊されてスペースシップの行方が分からなくなった後も、主人公は必死にスペースシップ(直子のメタファー)の行方を探していること
・スペースシップとテレパシーのように会話する時、スペースシップのセリフが鉤括弧ではないこと(つまり、この世の者の声ではない、ということ)
そして最後に、〈僕〉はスペースシップと別れ、遂に直子の死から克服するのだ。
その「克服」を象徴するかのように、物語の最後に主人公は双子と別れた後に、ビートルズの「ラバーソウル」を聴く。そのレコードには、直子を思い出させる『Norwegian Wood(ノルウェーの森)』も収録されている。
そのシーンが本当に美しい。もう一度引用する。
バスのドアがパタンと閉まり、双子が窓から手を振った。何もかもが繰り返される……。僕は一人同じ道を戻り、秋の光が溢れる部屋の中で双子の残していった「ラバー・ソウル」を聴き、コーヒーを立てた。そして一日、窓の外を通り過ぎていく十一月の日曜日を眺めた。何もかもがすきとおってしまいそうなほどの十一月の静かな日曜日だった。
まるでピンボールのフリッパーのように、双子の女の子は〈僕〉が暗い穴に落ちてしまうのを何度も弾きあげてくれたんだろう。彼女たちは、なんだかんだで〈僕〉の心の支えになっていたのかもしれない。
そんな双子が僕の元から離れていって、僕はひとりぼっちになった部屋で、一人でコーヒーを飲みながら、死んだ直子との思い出の曲を聴くんだ。
その時、〈僕〉は一体どんな顔をしていたのだろう。
どんな気持ちで、何を思ってコーヒを飲んでいたのだろう。
それを慮るだけで、なんだか涙が出そうになる。
こうした「大切な人の死からの克服」を「ささやかな希望」と言わずになんと表現するのか!
こうした考察に至った瞬間、僕はこの小説がもっと大好きになった。
以上、拙い文ですみません…。最後に僕自身が考えをまとめるのに参考にさせてもらったブログを載せておくね
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