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【現代アート①】現代アートとは何か

初対面の人に趣味を聞かれ、「現代アートを鑑賞することだ」というと、

たいていの場合、人ならざるものとして見られる。そして変な人扱いをされるものだ。(案の定、僕は友達が少ないのだが)

つまり、現代アートというジャンルはいささか偏執的な趣味に分類されるということだろう。

まあ確かに「現代アート」と聞くと、

「良さが理解できない」
「なんかピンとこない」
「なぜ値段が高いのか分からない」

そう感じることがあると思う。

謎の置物、漫画の盗作のようなもの、渦巻の羅列、ただの丸が描かれているだけの絵画。

もはや僕でも描ける。そう以前は思っていたし、そんな絵で儲けている芸術家に謎の嫉妬心さえも抱いていた。

例えば、こんなものが美術館に大々的に展示されていたら、あなたはどんな反応をするだろうか。

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自分にはただの風船のわんちゃん(?)にしか見えない。ちょっとこの美術館という場には場違い感はあるが、確かにバルーンの犬の巨大なバージョンでしかない。正直、よくわからない。

それなのに、周囲の大人たちは神妙な面持ちで眺めている。「ふむふむ」だとか、「ほ〜」だとか言いながら、それといったコメントはせずに、ただ頷きながら謎のニヤつきを見せている。

その時、この場は混乱とそれを悟られないように表情を作る大人たちで溢れかえっているようだった。

こんなんでは、美術館が楽しいわけがない。誰かがバカみたいに(いやここでは救世主になりうるのだが)「これって何がすごいの?」とか大声で話してくれれば、最高の展開なのだが、そうはならないのが日本の美術館である。

今回はそんな現代アートを楽しむ方法を僕なりの見解を含めてご紹介する。

❶理知的に楽しむ現代アート

極めて理知的な状態で陶酔の領域に到達する。

そんな快楽を味わえるのが現代アートの面白いところである。

すなわち、理論的に現代アートの文脈(いわゆるアートの歴史)を理解することで、眼前の謎の造形物の価値が解明できるということである。

これまで僕は、アートは感覚的にしか楽しめない、感性の主導の娯楽だと認識していた。実際、学校ではそのように習った気がする。バナナのような顔をした美術の先生が、芸術は爆発だと連呼していたのを僕は忘れられない。

「芸術は爆発」つまり、内面の衝動的な発露。

しかし、僕は大学生になって現代アートの歴史を少し学び、現代アートの価値がある程度は理論的につけられていることに気がついたのだ。

爆発以外の芸術の形もあったりして、それは往々にして文脈的に素晴らしいものだったりする。
史)」を勉強してから

つまり、ここで言いたいのは、

「感覚」ではなく「歴史(文脈)」を知り、
初めて論理的にアートの価値を理解することができる

ということである。

もちろん、感覚的に見ることや感性も重要な要素の一つであるのは確かだ。言葉では表せない「なにか」を感じ取るのも、アート鑑賞の極めて面白い醍醐味とも言える。

ただ僕ら素人にとって取っ付きにくい現代アートをはじめにまず理解し、楽しむためには、論理的に文脈を勉強することが不可欠だと考える。

どんとふぃーる、すぃんく!とでも言おうか。


❷アート界でイノベーションを起こせ

「イノベーションを起こせ。」だとか、「常識を疑え。」だとか、イケイケのベンチャー企業みたいなことを言うつもりはないけれど、

名だたる現代アートの有名アーティストたちは、皆イノベーションを起こしてきた。それまでアート界で当たり前だと思われていたことに対して、アンチテーゼを突き立て、その革命的なスタイルに価値はつく。


では、まずこれまでの美術を見てみよう。

まず、これまでアートや美術と言ったら、人の姿を表す「肖像画」や聖書の内容を分かりやすく示すための「宗教画」がメインだった。他にも「風景画」や「静物画」などもイメージしやすいと思う。

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宗教画

つまり、これまでは目に見える範囲のものを書いていた。写真が誕生する前の時代、人々は写実的な絵画に魅了され、そのリアルさや美しさに価値を見いだしてきたのだ。

けれども、現代アートはときに、「目に見えないもの(つまりコンセプト)」を主題にすることがある。

その代表作がこちらのである。

泉

マルセル・デュシャンの『泉』という作品である。

これがある日突然、美術の展示会に出品された。周囲の高尚な美術品に囲まれ、この『泉』は異彩を放っていただろう。場違い、というかむしろ、別の世界線から展示された作品のようにも感じる。

デュシャンというアーティストは、男性用便器に「R.MUTT」という架空のサインを書き込み、そのまま美術の展覧会に出品してしまったんだ。

これは当時、大変な議論を巻き起こし、出品が却下されるなど、センセーションを巻き起こした。

では、彼がここで行なったことの論理的な言語化を試みることとする。


別に彼は、単に便器を見せたかった訳ではないだろう。
ましてや便器のフォルムの美しさなんて考えるだけでナンセンスかもしれない。

では彼は何を見せたかったのか。

それは、「今までアートと見なされなかったものを、「アート」だと定義し、美術の領域に持ち込む」という考え方それ自体なのではなかろうか。

「目に見えないコンセプトこそがアートである。」

ストイックで変態的な革命児デュシャンは、あの便器を用いて革命の旗を掲げたのだろう。


❸美術界の常識を壊すこと=歴史を作ること

彼は現代アート界の始祖と呼ばれるほど有名なのは、社会一般での常識や美術界のセオリーに「問題提起」をしたからだと僕は予想している。

人よりも上手く絵を描いたものではなく、上手さの基準それ自体をひっくり返した者が歴史を作るのである。

そういう観点で言えば、彼の問題作は、美術界への常識を壊す問題提起でもあり、メッセージでもあり、美術の文脈への反逆でもある。

そう考えると、

現代アートとは「社会や美術へのメッセージや問題提起を含む作品」と定義することが可能なのかもしれない(議論の余地はまだまだあるし、いや、そもそも現代アートを定義しようとすることすらナンセンスなのかもしれない)


このように、現代アートは文脈やこれまでの歴史を知ることで、初めて理知的に理解することができ、歴史的価値も少しずつわかってくる。(アートが高額で落札されるのも、少しずつ分かってくる気もする…)

極めて理知的な状態で陶酔の境地へと到達する。そんな現代アート鑑賞の面白さを少しでも感じてくれたら、僕としても大変喜ばしいことだ。

まだまだ僕も勉強の段階、現代アート、常に進化を続けていて、常に新しい風を美術界に吹かせ続けている。

村上隆

アンディ


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