私のなかのちいさな私に会いにいく(2) 正しく親を恨むことの必要性

「親を恨むだなんて、神様の祠を足で蹴飛ばすようなものだ。」
そう思っている人は、もしかしたら世の中には多いのかもしれない。

自分と親の関係性はある程度良好だし、恵まれた環境で育ったと思っている。不遇なことをされたこともあったけれど、それは自分を愛していたからしたことであり、親として当然の躾だった。と思っている人は案外多い。

親はいつだって感謝し、敬い、孝行すべき存在であるという感覚は、ほぼ異論を唱えられることのない常識であり、真理であるとさえ思われがちである。

しかしもし、現実的な物事(育児、仕事、夫婦、お金、友人関係やパートナーシップなど)になにか行き詰まりや生きづらさを抱えているとしたら、一度立ち止まって、自分自身が育てられた環境を振り返ってみてもいいのではないかと思う。

特に育児をしていると、どんな親でもどこかのタイミングで自らが育てられた環境をほんの一部でも思い出すことがあるのではないだろうか。それは温かい気持ちとともに思い出されることもあるだろうけど、つらく悲しい気持ちとともに思い出すことも少なくはないはずだ。

今回の記事は、人によっては読むことで気分を害する場合もあるかもしれない。

前回(1)を上げた際に色々な方からの反応があり、その中には「私は過去のことは思い出したくないと思ってる」という人や、逆に「思い出したいのだけど思い出せなくて辛い」という人、そして「過去の自分と今の自分なんて関係ないと思う」という人もいた。そしてきっと自分が親の立場にいる人にとっては、親としての自分を否定されるような気持ちになる人もいるかもしれない。

私はそのどれもの考えを尊重したいし、思い出すことや過去と現在をつなげて考えることなんて義務でもなんでもない。「すべての人は一度過去に立ち返ってみるべきだ」なんて言いたいわけではまったくなく、あくまでも私の場合この方法が有効に働いているというだけの話である。

そもそもこのnoteはすべてにおいて私が私のために書いているものであり、誰かに何かを強要するものでは一切ない。ただ、私が大切にしたいと思うことを表に出すことによって、誰かが無意識に蓋をしていたものが開いて、「こんな風に思っちゃいけない」とか「こんな自分はダメだ」と思い込んで自分を奥に押し込めている思考を開け放つ一助になれたらいいなと思っている。

そのことをご理解いただいた上で、興味がある方のみ(もちろん他のどの記事だって当然そうだけど)この先を読みすすめてもらえればと思います。

「感謝しなきゃ」が先に立つと、思い出すべきことが思い出せなくなる

今こうして改めて過去を一つ一つ丁寧に振り返り始めたときに、気づいたことがある。

私はこれまでの人生、ずっと親を(正確には母を)恨み続けていると思っていた。もちろんしてくれて嬉しかったことや温かい思い出もたくさんあるけれど、根底的な部分で、私と母の間には決定的なものが損なわれ続けている関係だった。

けれど、私は本当の底の底ではまだ親を恨みきれずにいた。最後の最後の底を支える一番薄い板だけは割らずにいよう、そうしなければいけない、と無意識に思っていたのだ。

「そうは言っても私を産んでくれたから…」「ここまで育ててくれたから、そこに感謝しなければ…」と、どこかで思い続けていた。

でも誰だって、ガス欠のまま走り続けることなんてできない。

「自分が親にされて嫌だったことは子どもにはしない」「してほしかったことをする」ということを大切に育児をしてきた。最初はそれでうまくいっていたけれど、それも段々とガス欠状態になってきた。

子どもが悪いわけでも、ましてや夫が悪いわけでもないことは十分にわかっていた。それでも止めようのない怒りの感情が、後から後から湧き出るようになってきたのだ。

「仕方がないよ」「育児なんて誰にとっても大変なものだし」「みんなそうだよ」「じゅうぶんがんばってるよ」という周囲の言葉は、少しも私を慰めてくれなかった。

けして完ぺきな親になろうとしているわけではない。そもそも完ペキな親なんてどこにもいるはずがないことはわかっていた。

周囲の人に相談すれば、だいたいの人が同じような思いや経験をしている。それでも。この心の叫びがどこから来るのか。どうしてこんなに辛いのか。その源を、探ってみたいと思ったのだ。

その怒りは、あの頃満たされなかったちいさな自分の涙かもしれない

同じような環境にいても、それを辛いと思う人もいれば、楽しいと思う人もいる。

例えばわが家は夫婦揃って県外から移住していて、両家ともにそう気軽に帰れる距離ではない。周囲を見渡せば多くの人が実家や義実家の近くに住み、互いに助け合いながら暮らしている。

ちょっと前までは、そうした環境要因がこんなにも育児を辛くさせているのだと思い込んでいた。

実家から遠く離れた地に住んだのは自分たちが望んで選んだこと。だからこそのびのびとやりたいことをやって好きなように生きていられるわけで、それを選んだのは自分たちであることはわかっていた。

けれど、お母さんが保育園の送迎をしてくれるとか、ちょっと用事があるときに預かってくれるといった話を周りから聞く度に、チクチクとした気持ちになっていたのも事実だった。

そんな時、とある友人夫婦との出会いが私の心の方向性を180度変えた。その夫婦は県外から移住し、子ども4人を育て、犬1匹に猫1匹。さらに毎日薪で煮炊きをする自然に寄り添った暮らしをしているのだ。よほどのお金持ちなのかと思えばごく普通で、夫婦で協力しながら仕事をしているという。

そんな2人からは苦労や悲壮感といった言葉が微塵もなく、常にお互いにも周囲にも温かい優しさを湛えていた。そして4人の子どもたちも、もちろん私などが知り得ない苦労はたくさんあったにせよ、自分たちが愛されている存在であることをちゃんと知っている空気感がにじみ出ていた。

なにより驚いたのが、2人から出た「今まで育児を大変だって思ったことないよ」という言葉。

その衝撃的な言葉が、これまでうまくいかないことを環境のせいにしていた自分を振り返ってみるきっかけの一つになった。

同じような環境にいても、それを辛いと思う人もいれば、楽しいと思う人もいる。子どもが泣き叫んでいるのが辛いと感じるのは、もしかしたらあの頃満たされなかったちいさな私の泣き声なのかもしれない。

親なんてものは、恨んだっていい

親が子どもを傷つけることには、ある種の必然性があるのではないかと私は思っている。どんな親でも、共に生きる限り、そして子どもにとって親が愛情の対象者である限り、たとえ無意識であっても、親が子どもを傷つけるのは避けて通れないものだから。

だからこそ、人生のどこかのタイミングでその傷に向き合い、親との関係性を正しくメンテナンスすることが必要なのではないだろうかと思うのだ。

親によって傷つけられた怒りや悲しみを、なんの罪もない子どもや夫、そしてその他の周囲の人に向けるのは明らかに間違っている。そしてそれがもし、『親』という正義の仮面をかぶって行っている行為ならなおさらタチが悪い。それは誰かに殴られた悔しさをさらに弱い者に向ける、イジメの構造でしかないのだから。

そんなことをするぐらいなら、向き合うべき者に正面からきちんと向き合い、感謝の気持ちを一度全面的に手放して正しく親を恨み、自分の中で蓋をしてなかったことにしていた気持ちにきちんと目を向けることが必要なのではないかと思うのだ。

そうする上で必要なのは、「親なんだから感謝するべき」とか「これまでしてもらったことの恩を忘れているのか」とか「厳しいことをされたこともあったけど、あれは親として愛情があったからしたこと」といった言葉にカモフラージュされることなく、正しく親を恨むこと。そうすることで、初めて見えるものがあるような気がしている。

ただ、育成歴を辿り、現在の自分の生きづらさや行き詰まりの原因が過去の親との関係性にあったことがわかったところで、それを親に伝え、してほしかったことを求める、ということは必ずしも必要なことではないのではないかと私は思っている。もちろんもし「伝えたい!」と思うタイミングが来ればぜひ伝えたほうがいいのかもしれないけれど。

重要なのはそこではなく、自分の中に傷があるということを受け入れること。そしてその時小さかった自分がどんな気持ちだったかをしっかりと受け止め、本当は掛けてほしかった言葉を、今の自分が小さい自分に伝えてあげること。それに尽きるのではないかと思う。

正しく親を恨むことで見えてくるもの

ここで言う「恨み」とは心理のカラクリとしての恨みであり、現実的な恨みとは一致しないと私は思っている。最初こそ親の人格そのものを否定する感情がどんどん湧き出てくるかもしれないが(自分が親にそうされてきたという感情があればなおさらに)、それは徐々に人間そのものではなく、親子という『関係性』に問題があったのだという気づきに移行していくのではないか。

なぜなら自分に傷があるということは、親もまたその上の親から不遇な扱い受け、その傷を癒せぬままに子育てを続けていたことに他ならないから。そう考えいくと、親の、その上の親の、そのまた上の親の、またまた上の親の、、、となってしまい、結局は祖先すべてを恨み尽くさなければこの傷は癒えないという話になってしまう。そして結局、恨むべき大元の対象なんて誰だかわからなくなってしまうのだ。

リズ・ブルボーという方の『5つの傷』という本の中に、こんな一節がある。

意地悪な人というのは本当は一人もいません。そこにいるのは、ただ傷ついて苦しんでいる人だけなのです。

そう考えれば、結局は恨むべき対象など本当はいなくて、必要なのはただ本当は自分がどう思っていたのかを知り、それを自分で受け止めることに尽きるのではないかと思う。

そして大切なのは、その負の遺伝を、親子である以上傷つけることは避けられないことだとしても、可能な限り自分の子どもに引き継がないようにすること。その糸口もまた、親子の『関係性』にあるのではないだろうか。

親子のあり方を、『関係性』から考える

親は子どもをコントロールし、躾け、導くべきもの。そう思っている人は多いのかもしれない。しかしその関係性が続く限り、親子間で引き継がれ続けてきた負の遺伝はきっと終わらない。

親子の関係性というのはどうしても支配者と服従者というタテ構造になってしまいがちである。しかし、その『常識』を疑ってみることも時には必要なのではないか。

その上で私にとってものすごくヒントになったきっかけの本がこれ。

この本については以前書いたこの記事の中でも紹介している。

子育ての本質は子どもを従わせることでも躾けることでもなく、その子自身が自分の足で立って歩けるようになるための土壌に、愛という栄養分を注ぐこと。

その愛とは「親にとっての許容範囲の中でのみ許せる部分だけ愛される権利がある」といった条件付きのものなんかではなく、「これだけ与えれば十分。ここまでしてあげれいればOK」というものではなく、文字通り無条件のものであってしかるべきなのだ。

それは「どんなあなたでも愛してる。どんなあなたでも大好きだよ。」という安心感そのものなのだろう。

そしてきっと無条件の愛は、与えば与えるほど自分が枯渇していくのではなく、与えれば与えるほど自分も一緒に満たされていくものなのかもしれない。

それはつまり、子どもは親が幸せにしてあげなければいけない存在なのではなく、そのままですでに幸せな存在であり、もともと持って生まれたチカラでその後もじゅうぶんに心豊かに生きていけるチカラがあるということを信じきること。そして、同時に自分自身もそういう存在であることを知ることなのではないかということに、思いが行き着いた。

『無条件の愛』という話について、上記で紹介した本の著者である吉田晃子さんと星山海琳さんが運営しているサイト『オヤトコ発信所』で、吉田晃子さんの言葉としてとても感銘を受けた文章が載っているので、興味がある方はぜひ読んでいただきたです。https://ai-am.net/vol1-3release

ちいさな私に向き合うことは、結果ではなく生き様でしかない

自分の中の自分と向き合うことは「癒やされた」とか「癒やされてない」といったビフォーアフターではないと私は思っている。それは同時に、完ぺきな親(無条件の愛をいつでも与えられる親)とそうでない親がいるわけではないということでもある。

それは、生きて行く中でなにかにつまづき、行き詰まる度に自らを振り返り点検するという生き様でしかない、いわば羅針盤のようなものだ。それは、自らを責めて、否定することとはまったく違う。

そして大事なこととして、育成歴を振り返ったことがある人とそうでない人の間にはなんの上下関係もなく、それはただ自分を知り、自分を愛するための手段のうちの1つでしかないということも、同時に書き添えておきたい。

愛するわが子を本当の意味で愛せて、そしてだれより自分自身を心から愛せるようになるために。そして同時に、そんな私を育てた親に対しても、いつかは評価や条件などなしに無条件に受け入れることができるようになるための一歩として。

育児はきっと何才からでもやり直せる。それは同時に、自分自身の親子関係だって何才からでもやり直せるということを意味している。その一歩は、自分から。この記事を通して、そんな希望を感じれる一助になればうれしい。

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