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017. お金のために働く今だって、きっとそう悪くはない/仕事と自己実現の間で

私にとって仕事とは長らく、『自己実現』と同意義だった。「たとえ収入が少なくても、好きなことを仕事にしたい」とずっと思っていたし、だからこそずっと自分のすべての時間をそこに注いでいた。けれどままならない事態になって初めて、その前提が崩れた。

今日は仕事の日だということは、ちゃんと頭のなかに入っていた。それなのに、どういうわけか家を出る時間のことはすっかり頭から抜けていて、のんきに朝ごはんやらお弁当やら子どもたちおやつやらを準備して、さて朝ごはん、とテーブルについたときにフと時計を見上げると、出発の時間まであと10分だった。

まだ子どもたちの幼稚園の準備ができていない。自分の着替えもしていない。さっきまでののんびりモードはどこかに行き、スーパーイライラモードですべてのことを一気にすませ、寝起きでキゲンが悪くて泣きわめく娘を尻目にあとのことはすべて夫にまかせて、風のように家を出た。
はぁ。まだまだ働くことには慣れてない。

急いでいたにしても、もう少し気持ちよく出発すればよかったなとあとから反省しつつ、今日も職場に向かう。あたたかくなってからのこの季節は、りんご農家さんでお手伝いをさせてもらっている。去年の秋もお世話になり、この春で2シーズン目だ。冬の間のりんごの仕事の閑散期は、別の農家さんで倉庫作業のお手伝いをさせてもらっていた。

下の娘の妊娠期から含めて約3年のブランクを経て、去年から社会復帰をして約8ヶ月。結婚し、出産し、組織から離れて「これからは自分の名前で仕事をしよう」と決意して独立して、でももちろん最初からうまくいくはずもなく四苦八苦して、そうしている間に夫も仕事をやめて独立を目指すももちろん最初からはうまくいくはずもなく四苦八苦して。(デジャブ。)

夫婦そろって右往左往しているうちに貯金はあっという間に底を付き、生きるということそのものの根底をさまよった。まともにお金を稼ぐこともできない自分たちはまるで人間失格とでも言われているような気持ちになり、小さな子どもたちの命を守ることさえできないかもしれない状態に陥ったことが情けなくて仕方なかったし、そのことに足元のガラスが割れるような底のない恐怖を感じた。

けれどそれでも、どうしても『仕事』から『自己実現』を切り離すことができずにいた。

一度「自分の名前で仕事をする」と決めたくせに、結局それを成り立たせることができずに組織に戻ること。それが恥ずかしくて、悔しくて、悔しくて仕方がなかったのだ。

けれどそれでも、日々は容赦なくまわっていく。「もうこれは本当にやばい。」そう思っていたときにたまたま縁があって見つかった仕事が、農業だったのだ。

将来農家として独立したいとか、農業を通してなにかを学びたいという気持ちがあるわけではない。もちろん仕事としては好きなジャンルではあるし、傾斜の強い山肌にある土地でやわらかい風に吹かれながら、高いハシゴに登って浅間山から八ヶ岳につながる大パノラマを眺めながらする仕事はなんとも贅沢な気持ちがする。もちろん大変なこともあるし、働き手としてこの仕事に向いているとは言い難いことは自覚しているけど、この仕事は今のわたしにできる最大限の家族に対する貢献だと思っている。

余暇や自己投資のために使えるお金は一切ない。稼いだ分はすべて生活費に消える。(自分へのご褒美としてのおやつ代だけはこっそり別だと思ってるけど。)仕事を通した自己実現が叶う日は思っていたより遠いけれど、それが叶わないからといって組織に戻ることはぜんぜん恥ずかしいことじゃない。と、自分に言い聞かせている。

けして自己実現の夢を捨てたわけではなく、周囲の協力のおかげで少しずつ形になっているものもある。それでもまだまだ種まきが必要なのかもしれない。

叶うのが少し先に伸びただけ。そう思って、もう少し山の風に吹かれる日々を楽しもう。





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