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場をひらく、流れをつくる、心がひらく

人が気軽にあそびに来てくれる家に、子どもの頃から憧れていた。「今からあそびに行っていい?」って聞かれたら、不在であるとか在宅ワークがあるとかでないかぎり即座に「いいよー」って言える家。もっと言えば、事前連絡なしに急に来たとしてもぜんぜんオーケーで、玄関でおしまい、ではなく「お茶でも飲んでいきなよー」って普通になか入れてくれる家。

わたしが子どものころ、実家はそうとうに来客をイヤがる家だった。たとえば学校帰りに、事前連絡もなしに急に友達を連れて帰ってこようものなら。「おかえり」と言って玄関に顔を出した瞬間、母の表情がサッと殺気立つ。「こいつ、いきなり友達連れてきやがったな…、うちにはぜったいに入れないからな…」その表情から、母が心のなかでそう言っているのがありありとわかった。そしてなんとか体裁を保った表情に切り替えてこちらに近づき、「ごめんねぇ。うち今日はお片付けができてないから、あそびに来るのはまたこんどにしてね。」と、門前払いされる。そして玄関を閉めた瞬間、サッとさっきの鬼のような表情に戻って、わたしが怒られる。というのが、わたしの実家だった。

友達を呼ぶなら、最低でも1週間前には母に言うこと。それがわが家のルールだった。そしてそこから、怒涛の“お掃除大会”がはじまる。その1週間は間違いなく地獄のような空気感に包まれ、“とにかく掃除しなきゃモード”の母が際限なくまくし立て、片付けまくる。友達が放課後ちょっとあそびに来る、ということのためだけに。

足の踏み場もないほど散らかった部屋。目の前にあるのにその存在を忘れ去られた、たくさんの“いつか使うかもしれないモノたち”。普段は家族以外が立ち入ることはほぼなく、外に見られることのないその家は、たとえ窓を開けていてもなんだか空気が停滞していて、深く沈殿しているようだった。

その当時は、母が言うように、散らかっている家に人を通すことはできないというのが来客を拒む理由だと額面通り思っていた。でも、大人になった今思い返すと、ほんとうの理由はきっとそうではなかった。それは「自分の内側に踏み込まれたくない」「こんな取っ散らかった自分を、誰にも見られたくない」という、母のなかの意識がそうさせていたのだろう。

いざ、お客さんが来る当日。そこはいつものわが家とはまったくちがう空間となった。普段は見たこともないお客さま用の食器、お客さまが来たときだけ出てくる体裁のイイおやつが食卓に並べられた。(キレイにカットされた果物や、個包装のチョコやお煎餅など)。それをどこか白々しく感じつつも、その空間は好きだった。食器はどこか透明感があり、あたりは明るくキラキラした空気感につつまれ、部屋に降り注ぐ光が一粒一粒みんな笑っているような、幸福感に包まれた空間。ふだんの重く沈殿した空気はどこかへ行き、まるで前からずっとそうだったかのように、あたたかく微笑んでいる母。そのあたたかさが好きで、「毎日こうだったらいいのに…」と思っていた。だから、人がうちにあそびに来てくれることが大好きだった。

だから、いつ行ってもわが子のように受け入れてくれる友達の家がうらやましかった。急に行っても、「はいってー」と言ってくれる幼馴染の家。その家は15年ほど前に新築に建てかえてしまって、しかもその子は結婚して今ではどこに住んでいるのかも知らず、まったく連絡を取っていないけれど、子どものころにわたしの目から見たその子の家の畳の居間や柱時計、台所に立つおばちゃんの後ろ姿は今でもよく覚えている。あそんでいてちょっと遅くなると「夕飯食べてく?」と気軽に誘ってくれて、よくごちそうになっていた。

けしていつも片付いていたというわけではなかったその家。むしろモノは多く、いろいろな「コレ何につかうのん?」と思うようなモノや、多種の美容クリームや髭剃り用の泡などの日用品たち。おやつや夕飯もまったく気取ったかんじがなく、ふだんその家の子たちが食べているものがそのまま出されて、子どもたちが悪さをすれば普通に「コラッ」とはたかれている光景は何度も見ている。他の人が見ている前だから怒らないとかではなく、内であろうと外であろうと当たり前のようにいつもと同じように振る舞うそのあり方が、素敵だなと思っていた。

きのうから、遠方の友達が息子とその友達を連れて泊まりに来ている。アウトドアを仕事としていりその友達は、この寒いなかだというのに、極寒の片田舎であるわが家の庭の敷地にテントを張って寝るのだと。リビングに布団を並べて雑魚寝でもいいよと言っていたのだけど、どうしても冬のテント泊をしてみたいのだと言う。いやーいいねぇそういうの。今朝も早くから近所の山に登山に行き、夕方にまたわが家に帰ってきて一緒に夕飯を食べて、もう1泊していく予定。お互い行動を縛らず、自由にあれればいいよね。

気軽にあそびに行ける家というのは、それだけ心の内側と外側が近くて、鎧がほとんどない状態なのだと思う。そこが片付いている状態なのか、お客さま用に出せるお茶菓子やキレイな食器があるかどうかということが問題なのではなく。

わたしにとっての、人が家に来てくれる意味。それはシンプルに、家に新しい空気を入れること。それによって新しいエネルギーが流れて、それが循環していくこと。その流れができることによって、自然と物事がいい方向に行くような気がするのだ。


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