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セメントプロデュースデザインは・・・。

僕はセメントプロデュースデザインという会社を経営しています。
会社は23年経ちますが僕らは「デザイン会社」という皆さんが考えるデザインを制作をする会社という枠の中にいる会社として周囲に判断されていたことをカンブリア宮殿に取り上げていただいたのですが、出演後にウチの取引先銀行から「御社のやっていることやっと理解できました」と(笑)

あれ?あの会社デザイン会社だろ?という感じで驚かれてました。

過去自分たちが何度も丁寧にきちんと伝えたつもりでも、きちんとは聞いてくれてなかったのか、伝え方が下手なのか、要は伝わっていなかった。受信されていないことは再認識しました(苦笑)(書籍出したあとすぐに渡したはずなのに・・・絶対に彼らは読んでないな。。本は買わないと読まないもんです(笑)

TV番組は多少盛っている部分もあるかもしれませんが、
一般的に思われているデザイン会社の向こう側をわかりやすくまとめていただいたことで、デザイン会社や僕らの取り組みや考え方を発信していただいたことは本当にありがたかったです。(今での動画リンク活用させていただいてます)

それよりも、僕らの業種や仕事のことが、一般的にはデザインをする=形を作る=制作会社の認識粋を超えていないことも実感させられます。

で、まずは自分たちの居場所から。

僕らセメントプロデュースデザインの本社は
大阪は西区京町堀の靭公園の近くにあります。

1階がお店、2,3,4階がオフィス、隣の青いビルも。

で、東京はもともとあった港区青山の表参道駅近隣(格安裏道物件)から
墨田区役所さんとの連携した事業に採択されて墨田区の押上駅近くに移籍。

1階がお店で2階がオフィス

大阪と東京にはお店が併設されています。

そして大学時代から馴染みの深い京都にも。
ただ少し変わった場所に事務所があります。

銀行の建物の中なんです。(何故かは長くなるのでまた別途)


京都は京都信用金庫さんが作られた、"みんなで答えを探しにいく共創施設"【Question(クエスチョン)】に拠点があります。(業務提携を結んでます)

僕はデザインプロデュースの会社の代表をつとめてますが、
僕自身はデザイナーではありません。(各地でこれが一番驚かれます)出身大学は京都精華大学という美術系大学の文系学部の出身です。中学時代の美術の成績は5段階で2を取った人間です。絵は苦手というか、、全く描けません。
(息子も美術が苦手のようで、遺伝しております)

では、普段はどんな仕事をしているのかといえば、
依頼主の方々の事業の悩みや心配事を聞き、課題を見つけて必要な治療方法を検討し、考えて、監修して、スタッフと実行していく係です。(何でもか。。)

実際相談される会社のパターンは様々ですが、皆さんがご存知のコクヨさんやエレコムさんやマンダムさんなど、メーカーさんとのデザイン案件や、星野リゾートさんやユニクロさんや有名な緑のマークのコーヒーブランドさんのような会社さんとか、変わったところですと太陽誘電さんとか新事業のプロデュースのお仕事など。

(どちらのデザイン会社さんも同じかと思いますが、僕らも大きな会社から小さな会社まで色々な方々とお仕事やってます)

https://www.cementdesign.com/works/

ちなみに大手の会社さんとの仕事の場合は、依頼主の皆さんから取り組み案件に対
しての予算や納期や内容(いわゆるブリーフィング)の説明がしっかりされます。

案件によりますが、プロデュース部とデザイン部から数名でチーム編成後案件に着手していきます。特に中小企業さんの場合は、そもそもどうすればよいか悩まれていたり、抱えている課題や不安に思うことに対してどう対処したらいいのか、解決するためには何をすべきで、何をすべきでないのかを一緒に考えないといけないのか、一緒に悩んで、一緒に考えて、一緒に作って、次なる動きも共にリスクを負いながら打って出ることもあります。

デザイン業界のありかたと変遷

僕らが1999年に事業を始めた頃は、「ポスターを作って欲しい」「パンフレットを刷新したい」といった、具体的にデザインする内容がはっきりした仕事が多かったと思います。ところが、次第に依頼主から寄せられる注文が変わってきました。特に中小企業からの相談です。

「これって、どうしたらいい?」
「仕事が減っているこの状況から、なにをすればいいだろうか?」
「ウチのこの設備と人材で、つくれるものってなんだろうか?」 
「そもそも、どういうモノをつくればいいのか、わからない……」

企画部やデザイン部などが無い会社の場合こういったケースは非常に多いです。
なので何をどのように依頼すればよいのかがわからない。という相談です。

今の状況でどう動くべきなのか、何を目指すべきかを相談される機会が増え、
おのずとデザインする対象や事柄が起業時よりも重く変化し、広がってきました。
全く何も実績の無い状況下でモノをつくり、コトを起こし、売るためのミチ
(流通)までを考え、実行したりすることもあります。

他産地の製造側と買い手側、使い手側とがつながる場をつくってみたり、違う技術を持った事業者同士が出会い、手を組める機会を設けたり。町工場の新たな顔をデザインすることもあれば、会社のための経営資源や伝統工芸の事業継承への道をデザインするケースもあります。

デザインは印刷会社がついでにするものであった感覚は独立した意匠という存在になり、さらにはデザインの意味も役割も変わってきたのだと、感じています。
(地方の経営者はまだまだ印刷会社がついでにする認識が色濃いですが・・・)
こうした活動を続けてきたことで実際に倒産や廃業のピンチを救う場面にも出くわしました。

経営者の抱える数々の悩みをチャンスへ

海外産の安価な眼鏡チェーン店に押されて、業績不振に苦しんでいた福井県鯖江市の眼鏡の材料を扱う商社とは、眼鏡づくりの設備と技術をそのまま生かしたミミカキをつくりました。3900円もするミミカキですが「ギフトとして贈られる高級ミミカキ」という新しいカテゴリーを切り拓くことに成功し、発売4年で3万6000本を超すヒット商品に成長しました。

これがその会社の黒字化につながっただけでなく、社員さんが増え、社員さんのヤル気までも喚起することにつながりました。今や地元の有力企業となったその会社の影響から周囲の小さなメーカーの皆さんが次々に新商品を開発され、鯖江、そして福井を盛り上げる牽引企業へとその名が知られるようになりました。

愛知県瀬戸市で陶磁器を量産するときに必要な型をつくる職人は、
業界全体が冷え込むあおりで窯元からの仕事が激減している状況でした。

自社で販売できる企画をと皿をつくって売ろうとしていましたが、どこにもあるようなプレーンなデザイン。他が真似できない細かな手彫りで型をつくる技術を持っていたにも関わらず、下請けであることで自社商品を作ることができず、その技術も生かされていなかった。技術を最大値に振り切った企画でこの会社の顔を作っていこうと、手編みのセーターの網目を思わせる凹凸がある湯飲み茶碗やどんぶりを一緒に開発しました。

デザイン品を扱う都内のミュージアムショップやインテリアショップからの取引に繋がっていきました。結果的にはそうした商品で一般の方々に楽しく技術力の高さを広くアピールできました。その後僕らはガイアの夜明けなど多数メディアでで取り上げて頂く機会に恵まれて、職人さんも産地から型の仕事が殺到し過ぎて体調を崩されたくらい多忙だったようです。

メディアがきっかけで出会った、静岡県熱海市の木工所さんも、もともとは、熱海の旅館などの建具を請け負ってきていた木工所でしたが、相次ぐ旅館の倒産で請け負っていた仕事がなくなり、廃業寸前に追い込まれていました。

(詳しくは拙著にありますが)何かをしなければならないが、そのための設備投資などは到底無理。半世紀以上使い込んだ手持ちの機械だけでできることを考えたのが、片面は切るためのまな板が裏返すと盛り付けが楽しくなるプレートになるという商品を開発しました。

これまでにない新しい切り口だったのと著名なホテルで使ってもらったことで、テレビや新聞が取り上げてくださり、この木工所は新たな下請け仕事が増え、窮地を脱することができました。

開発の手ほどきを職人たちに伝えていくことに。


京都では伝統工芸の職人の変わる様も目の当たりにしました。
これまでは社内で開発など手掛けていた流れを、職人向けに進めてほしいと依頼があり、京都府の若手職人育成プロジェクト「京都職人工房」にて、はじめての商品開発ゼミを行うことに。当時はまとまったテキストがあるわけでもなかったので進めることにお互いが手探りでした。

その中で、参加者の一人、竹籠編みの職人の商品開発を手伝ったときのことです。その方は竹を細く紐状にし、それを編んで精緻な籠などをつくっていました。すべての工程をお一人でつくっているために量産ができず、どの作品も高額になってしまうことと従来の取引でつくっていたけれど、なかなか売れないという悩みを抱えていました。

KYOTO CRAFTS MAGAZINE(伝統工芸の仕事マガジン)より
KYOTO CRAFTS MAGAZINE(伝統工芸の仕事マガジン)より

(経緯は別記してますが)
作家としてもまだ単独で個展ができるわけではなく小康状態が続いていました。
そこで比較的生産がしやすく、第三者も売りやすい。そんな視点からアクセサリーの開発に取り組み、竹編みのバングルとリングをつくりました。

これが国内だけでなく、パリの見本市でも高い評価を受け、職人自身も雑誌などで多数取り上げられました。そしてミラノサローネに出展しているデザイナーからも声がかかるようになり、作家としての知名度を高めることができました。次第に無名ゆえに売れなかった高額な籠商品も次第に売れるようになり、全国の百貨店から実演販売の依頼も寄せられるようになったのです。


また、神戸市役所さんからの依頼で始まった共同ゼミでは

地元の産業振興のために設けた開発ゼミで出会った菓子工場からは「思うように売り先が広がらない」と相談されました。瓦せんべいの製法で開発した新しい企画のハードワッフル菓子は食べると美味しい。

なのに新たに扱っている店は地元の百貨店1店舗だけでした。
どうやら誰に向けて、どう売るべきかという検討や整理がされないまま、なんとなくデザイナーに依頼してつくったパッケージが原因でした。

地元でしか売れなかった

開発ゼミに参加されることに。

開発ゼミでは自分たちが売りたい顧客像や行きたい売り場を明確にし、
それに向けたパッケージデザインや売り方に変更したところ、

都内の高感度なライフスタイルショップが扱う商品に見事進化できました。


自分たちで、何かをつくって、売っていこう。

起業して企業のお仕事の進めていく合間に、気がつくと、相談を持ち込まれる案件は下請けの零細企業や町工場の経営者、それに伝統工芸の職人たちが増えてきました。これまで僕らのようなデザイン業界が接する機会が少なかった人たちです。
何故、僕らがこうした人たちと仕事をするようになったのか。それは起業して間もないころ、セメント初の自社商品を作って売っていこうとしたことがきっかけになっているのかと思います。

今思えばですが、何も知らないゆえの怖いもの知らずというか、ずいぶんと無謀なプロセスで進めていたなと思います。まったくのズブズブの素人ですから、当然失敗の連続。擦り傷から切り傷、打撲と血まみれになりながら、モノづくりとはなんたるかを学ばせてもらいました。

今の事業を立ち上げた28歳。手持ちの資金はわずか3000円という中、実家で小さなデザイン会社を立ち上げました。バックがいるわけでもなく、ツテもなく、まったくのゼロからのスタートです。仕事は自分で営業をして取っていくしかないのですが、いきなり会社を訪問して「なにかデザイン制作する仕事はありますか?」と言ってもすぐには難しい。

そして受注仕事だけではまずい、という考えも頭によぎっていました。
独立前に勤めていた広告制作会社は大手広告代理店の100%の下請けでした。
こういう下請け状態だと、ほかのクライアントとのつながりがまったくないわけです。なので、ある日突然代理店からの仕事が切られたら、一巻の終わりです。

当初考えていた3つの目的

自社商品を持っていれば、受注案件と自社販売との両輪で安定収入につなげていけるのではないだろうかと、3つのことを頭において進めたいと思ってました。

1.「自社の訴求と営業」
2.「高下する仕事と収益の安定」
3.デザイン以外の人材の成長機会を増やす」(このことは、また別途書きます)

ま、要は自分たちで考えてデザインして売る商品はなんでもよかったのです。
最初は自分たちがシェアしていた事務所にいた先輩デザイナーがピースマーク風のかわいらしいクリップのデザイン案を温めていたので、雑談の中からこの企画を第一号として進めていくことにしました。ただ、自分にとってはそれまでプロダクトデザインの事業は未知の領域。商品をつくった経験がありませんでした。

起業して間もない資金難の中、初めてのプロダクトづくりを進めることに

最初のモノづくりは苦戦の連続

すべてのステップでつまづく。。

まず、何も知らない僕は工場探しから苦戦します。当時は町工場でホームページを開設しているところはほとんどありません。

ひたすら電話帳をめくって工場を探しました。

が、いったいどんな工場でどんな人達がつくってくれるのか電話帳からは全くわからない。(簡単な業務内容と住所と電話番号だけ)手あたり次第に連絡していくと、作るにはどうやら高額な金型が必要だということを知り、格安で実現できないか、なんとか金型代が安くならないかと、あちこち工場を探したのです。

ようやく数万円で受けてくれるところが見つかり、試作を頼みます。

が、すぐにその金型は耐久性がないため追加の費用が必要だと言われる。
何故?という疑問は工場の話から僕が無知なため理解できず、不信感を持ってしまい、他の工場に変えて生産しようとしたのですが、また結果は同じに。工場を変えても満足いくような製造環境になかなかたどり着けませんでした。

実は安くできる金型はサンプル用で、量産には適していなかったのです。
無知ゆえに、工場とのコミュニケーションがきちんとできていなかったために、
さらに無駄な出費が続きました…。

クリップがモノづくりと商売のイロハを教えてくれた

これはもっと親身に話せる関係でなければ相手にされないのではないかと知り合いに片っ端から聞きまくって工場の方とつながろうと考えました。
(今思えば無知で行動もアホだなと思います)

一番左の方が成瀬社長(現在会長)

そして知人から紹介された東大阪にある町工場(成瀬金属株式会社)に伺ってみるとデザイン画を見た成瀬社長からいきなりこう切り出されたのです。

「金谷くん、自分はこの企画いくらで売りたいんや?」
(え??価格のことなどまったく考えていませんでした)

「20枚入りを500円ぐらいで販売できたらなと……」

1000円は高いと思い、とっさにそう答えました。

「ほな、ウチはなんぼでつくったらいいんや?」

え??これまたわかりません。

以前アパレル業界の知人から、オリジナル商品の原価は売値の3分の1くらいという話を聞いたことがあったので、だいたい○○○円くらいで。。。と伝えました。

「そっか、ほな、最低20万枚は抜いてつくらなアカン。それだけ抜くなら安い金型では無理や。金型代と商品代合わせて100万円かかるけど、どないする?」

ええっ!?

思いもよらぬ金額にビックリしたことを覚えています。

「そんなにかかるのか……」と衝撃数字でした。

借り入れして始めたわけではない事業ですので、それまでの仕事で得たお金でいろいろ出費をしているので悩ましい。でも、これまでの失敗もあるので諦めたくないし、引くに引けません。かといって、そんな大金は持ち合わせていないし、借りる当てもない。

僕はとにかくお願いするしか無いと思い、、、



「商品は3ヶ月、金型は半年払いにしてもらえませんか?」



という月賦払いのお願いを数行書いたA4の紙を一枚持って再び伺いました。

成瀬社長には「ええ?アホか〜?」苦笑いされました(そりゃそうだ)
ただ、その頃、成瀬社長も自社で色々作っては東急ハンズなどに営業されてたそうで、ご自身も活動には熱心なご様子でした。

僕のただ熱量だけ汲んでいただき、「ま、おもろそうやし手伝ったる」と。

なんとかアホみたいな条件を信用も信頼も無い中で、承諾してもらうことができました。

そうして、20万枚ものクリップが工場で製品として出来上がりました。

ですが、さすがに裸のままでは商品になりません。そう、パッケージがいる。
ケースが必要ですが、製造すればまたお金がかかる。

試しにプラスティック製のパッケージにするにはと、見積もってみるとまた想像を超える金額が出てきました。。。流石にマイナス100万円の状態から更にかけるお金もない。そこでこのクリップが入る容器を探してみることに。

空き容器メーカーのカタログなどを片っ端から調べてはサンプルを取り寄せサイズの合うケースを探していきました。

が、そんなうまくいくはずもなくなかなか見つかりませんでしたが、
偶然1つだけピッタリ合うケースが見つかりました!

ただ、、、、
蓋がブルーで身の部分の色が透明。聞けばこの色の組み合わせしか無いとのこと。色が違うことが気になる。。。気になる。とても気になります。

でも同じ透明の色の蓋は無い…。
もし作るならどうすればよいか試しに聞いてみたところ、

「10,000個発注してくれるなら…」

じゃあ作ります!と即答しました。

で、なんとか奇跡的に…

「20万枚のクリップがちょうど1万個のケースに収まった!」

今では恐ろしくてこんなやり方はできません(笑)
ですがこの時はこの偶然に喜びつつ、また追加で借金をしながら「20枚入り500円」の商品が1万セットが内職さんを通じて出来上がってきました。

ですが、ここからがまた大変でした。

これまで一度もモノを売ったことが無いわ。。。


どこにどうやって売っていくのかもわからない。
まずは手あたり次第に知っている店に営業をかけました。

そして当時人気のあった大手の雑貨チェーン店に出会い営業する機会を得ました。
商談室に行って各メーカーから来られている営業の皆さんを見て驚きました。
ほかの営業さんはトランクにいっぱいに商品を持って来ている。

僕らはクリップのみ。見た目は手ぶら状態。1個しか無いのでこの商品についてずーっと話しました(笑)案の定、先方のバイヤーから売り込み商品がたったひとつだったことに驚かれました。

そして、
「この商品扱ってもいいけど、口座がないので問屋を通してくれないですか」

と言われました。

「え??」


商品の流通の商習慣を知らなかった僕にとって、相手が何を言っているのかよくわかりませんでした。1個しか商品のない会社といちいちビジネスの手続きを社内でするのは難しいということ。

メーカーの皆さんには「馬鹿か」と思われるかもしれませんが、初めてこの業界を経験する僕には商品を卸すには取引口座が必要で、簡単には越えられない壁であることを初めて知ったのです。

そしてこの取引口座は、卸したい側にとっては会社の資産にもなること。(だから会社案内に皆さん取引されている会社を明記されているんだと)
その後も商いの常識を理解するまでに相当な時間がかかったように思います。

知り合いの会社の口座を借りて商品を卸すことできたのが2003年から展開していくことができたのが「Happy Face Clip(ハッピー フェイス クリップ)」です。

次に待っていたのは資金繰り。。。
約束していた工場への締め支払いが30日後。
卸したお店から入金されるのが30日後、、、。

仕入れて払うという単純そうに見える商売ですが、CFがわかってなかった僕にこのことが自社CFに負担をかけることになります。

当時はネットバンキングがなかった時代でして、口座に入金されるやいなや、工場に払う、内職さんに払う、という自転車操業が。毎月月末はヒヤヒヤしながら振込窓口で支払い作業をしてました。(行列の中、半日ATM占拠してたので、今なら怪しまれること間違いなしです)

その後、運良くノベルティとして何百個だったか忘れましたが受注することになり、その発注書を持って初めて借り入れをすることができました。(初めての借り入れで緊張しましたが、資金は安定し始めました)

その後、お陰さまで売り先も広がり(全国の小売店で約500以上に及ぶ取引口座を持っている)発売から22年?販売累計が30万個を超えるロングセラー商品になっています。

このクリップの経験から、自分たちのモノづくりは最短距離では行けないこと、工場との生産環境、原価設計や検品作業などたくさんの工程と手間がかかることが身に染みてわかりました。 

同時に、商品はつくって終わりではなく、きちんと売って、買い手に届いてはじめて商品となる。いわば商品をデザインするとは単に設計して色や柄を決めるだけでない。それをどう見せて、どういう売り場でどう売ってもらうか。

きちんと出口を見据え、企画から流通までを考えて動く、いわゆるコト(技術)・モノ(意匠)・ミチ(販路)の一連を「考動」していくことがデザインであると自分は痛いほど思い知りました。

どんな会社でも「強み」というのがきっとある


町工場の人たちからすると僕らのような業界はとかく胡散臭く思われがちです。

僕の会社にしても、「プロデュース」と「デザイン」という、聞きようによっては胡散臭いワードが2つも入っています。でも、講演などでこのクリップ開発のくだりを話すと、工場のみなさんに笑われながら、「俺たちも似たような経験をしてきたよ」と。同志と思われるようで、講演後に近づいてきて「ウチの相談に乗って欲しい」と話しかけられることが増えていきました。

僕らのようなデザイン業界の顧客は、そもそも製造か販売をしている企業です。

家電業界、食品業界、アパレル業界などの製造業とそれに伴う販売のさらなる成功のために、CMやポスター、カタログ、プロモーションといったたくさんの仕事を依頼されてきました。そうした業界の会社や人たちにお世話になり、自分たちの仕事として生活が成り立ってきたわけです。

ただ、今は大企業といえども苦戦している時代。

顧客のみなさんは弱ってきています。小さな会社はなおさらで、各地で出会う事業者はどこも下請けの受注仕事の絶対数が減っているといった課題を共通に抱えていました。

日本の製造業が厳しくなれば、必然的に僕らの業界も厳しくなってきます。デザイン関係を教える教育機関は増えていますが、このままだと若い世代のデザイン需要がこの先もあるとは限らない。

「デザイン業界がもっと製造業界から信頼される必要がある」
「日本のモノづくりの課題を、互いに解決し合える方法はないだろうか」

そんなことを常々考えることが多くなっていました。これまでお世話になってきた分、製造業のみなさんに対してなにかお手伝いはできないか、貢献はできないものかとも感じていました。

そこで、ある小さな取り組みを起こすことにしたのです。
僕らは町工場や職人のような設備や技術は持っていないけれど、アイデアを考えられるし、デザインもできる。売っていくこともなんとかできます。であるなら、互いに知恵を出し合いって抱える課題を解決する。協業企画「みんなの地域産業協業活動」と勝手に僕らが命名した活動です。2011年から開始して毎年少しずつ事例が今もボチボチと増えてきています。

約700種類以上の商品開発と商流設計


そのうち、各地の自治体からも相談や依頼が舞い込むようになりました。京都府の「京都職人工房」講師をはじめ、東京都墨田区の「すみだブランド事業」コラボレーター、神戸市産業振興局の「コラボラボ」講師など、肩書はいつの間にか15を超え、年間沢山の勉強会や講演をこなすようになっています。

相談に来られる方々も大きく分けて2パターン。


こうした活動で巡り合う町工場や職人のみなさんには必ず、
こういう質問を投げかけます。

「〇〇さんの会社の得意なことや強みって、なんですか?」
「なんで商品をつくりたいんですか?」
 するとたいてい、こういう答えが返ってきます。
 「これといった、たいした強みは……」
 「仕事が減っているので、なんでもいいからつくろうと思って……」

その後必ず聞くのが

何故商品開発したいのか、その理由は?

おそらくこれまで自分たちの強みということをあまり考えたことや、そうした機会がなかったのではないでしょうか。日々の仕事の中で自分たちがなにをつくってきたかはすぐにわかるものの、毎日毎日手掛けている製造物から、自分の得意なことや強みをなかなか思いつかないものです。

自分の工場や自分の技術でどういうことができるのか、どんな素材をつかっているのか、その技術でどんなものが生み出せるのか、気がついていない事業者はとても多いと感じます。

ネジやバネといった部品をつくっている町工場や、分業制である一部しか請け負っていない職人だと、普最終の完成形をイメージしづらいので仕方がないのかもしれません。

そこで一度、日々やっている仕事をバラバラに分解し、整理し、分析してみるとおのずとできることが見えてくることもあるかもしれません。そして、そこには自分の得意な技術といった「強み」や次の時代に生き残れる「武器」が潜んでいる可能性があるかもしれません。

今も町工場や職人のさまざまな仕事現場に通って思うことですが、どんなところも必ずなにかしらの「強み」があると確信しています。(という前のめりな視点でみつけようとしてます)それは持っている技術や技法なのか、工場や工房にある設備や道具なのか、はたまた普段扱っている素材なのか……。


これまでの技術と素材と方法を見直して、考えて実行する。



普段お付き合いしている人たちや扱っている商品の取引先の口座、働いてらっしゃる内職さんの人数や技術、工場の立地や環境など様々なものがその会社にとっては資産であり、強みになることもあるのです。


今の仕事の状況が変わって、下請けにとって最大のピンチに直面しても、そうした自分たちが持っている武器をあらかじめ知っておけば、生き残りの「手」を使って準備しておくことができます。

では、具体的にどうしたら自分の強みを探せるのか、そしていかにしたら強みを「手」として活かしていけるのかこれまで各地に行ってみて感じた今の現状も合わせて書いていければなと思った次第です。

ちなみに2017年に出した拙著ですが3刷目になりました。

すでに書店には流通していないかともいますので、Amazonやウチのお店"コトモノミチ"で直接買ってくださったのだと思います。探して見つけてくださって、買ってくださったこと感謝しております。ありがとうございます。


お店で販売している本には手形入れてます(笑


で、時々言われる「続き無いの??」

次の本の構想もボチボチイメージしはじめています。
実は大学の先生と共同研究もしていたり。。その資料も次のベースにと。

同志社大学の高橋教授と研究した共著論文

次の中小企業研究は支援団体の方々が使えるツールのようなものになればなと思ってまして。書籍はそのわかりやすい版になっていいのかなと。

項目に分けて分析


どういう開発方向に振っていけば良いのか、もう少し見える化と使える化を。

https://www.cementdesign.com


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