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ベトナム歴史秘話:驚きの史実対決【前編】ハノイに存在した自由の女神とは?

ベトナムの2大都市である北部にあるハノイと南部にあるホーチミン。陸路だと約1700km(青森~佐賀くらいの距離)、国内線のフライトでも2時間15分もかかるといった距離があり、ベトナムを代表するライバル都市でもあります。

そこで今回は、それぞれの都市についておそらく日本人の99%が知らないであろう史実を調べ、どちらがより驚きの出来事であったのかを比べてみたいと思います。まず前編では、首都ハノイにかつて存在した「自由の女神」についてです。

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2. ハノイで有名な観光地

ガイドブックにも必ず載っているハノイの有名な観光地と言えば、旧市街にある「ホアンキエム湖」です。

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15世紀、黎朝の初代皇帝となった黎利(レ・ロイ、Lê Lợi)が湖のトゥアンティエン剣(Thuận Thiên (kiếm))を手にして中国の明王朝と戦い勝利。その後、黎利は金の大亀から竜王に剣を返すように啓示され、湖の中心近くにある小島で剣を返したことから、ホアン・キエム(ホアン=還、キエム=剣)と呼ばれるようになったといった場所です。

余談ですがベトナムの作品(書物や現在ではゲームなど)にてこの剣がよく登場する様で、イギリスにおける「アーサー王のエクスカリバー」や、日本における「ヤマトタケルの天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)もしくは草薙剣(くさなぎのつるぎ)」のような存在感と考えられます。

そして湖にある別の小島には、亀の塔と呼ばれる建物が建っています。

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しかし今から130年前(1890~1896年)のこの場所には、あるモノが存在していました。それがこの古写真に写る・・・

自由の女神5

中心部の亀の塔部分を拡大するとこんな感じ。

自由の女神4

この形、どこかで見たことがありませんか?・・・そう、誰もが知っている『自由の女神』です。

なぜこの場所に自由の女神像が存在していたのでしょうか?そしてなぜ現在では存在していないのでしょうか?

3. 植民地化したタイミングで来た「自由の女神」

一番有名なニューヨークにある自由の女神像は、1776年のアメリカ合衆国の独立から100周年を記念してフランスより贈呈されたもので1886年に完成しました。台座部分を含め高さ93mで225トンもあり、アメリカの自由と民主主義の象徴ともいえる存在です。

ニューヨークの自由の女神

自由の女神は1つだけでなく、ニューヨークへ自由の女神像を贈ってもらったことの返礼としてパリに住むアメリカ人たちがフランス革命100周年(1889年)を記念して贈ったものもあります。こちらは、セーヌ川のグルネル橋のたもとにあり高さは11.5メートル、重さは14トンと本家より小規模なものです。他にもスペインや別の場所でも自由の女神が作られました。

パリにある自由の女神

パリにある自由の女神より

さて新聞記事などを通じて当時世界的に関心を集めた自由の女神像。ちょうどフランスの植民地となったばかりのベトナム・ハノイにて、1887年に初めて開催される産業展示会でも展示されることになりました。像はニューヨークに送られたものを作る際にフランスで一緒に作られたレプリカとも言われており、サイズは、高さ2.85mとだいぶ小規模なものです。

自由の女神

「自由の女神」がハノイに来た1887年は、インドシナ総督府が設置されフランスによるベトナム全土の植民地支配(フランス領インドシナ)が成立した年でもあります。

同じ時期にフランスで作られながら、片や独立を祝うべくアメリカに送られ、片や独立を失ったベトナムへと送られたのは何という歴史の皮肉でしょうか。

この展示会終了後、像はいったんホアンキエム湖に面したフラワーガーデン(現在のリータイトー公園)の湖側に面した場所に設置されました。しかしこの展示会を企画したPaul Bert知事が1886年亡くなっており、それを悼んで自由の女神の位置にPaul Bert知事の像を建てることが決まります。

1890年のホアンキエム湖2

1890年のハノイ古地図、ホアンキエム湖周辺。この35番(34の右上)の位置がPaul Bertの銅像である。

では、自由の女神はどこに移動させるのか?フラン人エンジニアのDaurelleの発案によって公園のPaul Bert知事の像のほぼ正面向い、ホアンキエム湖に浮かぶ「亀の塔の屋上」に設置することが提案されます。

この亀の塔、実は古いものでは無くフランスがハノイを占拠した後、フランスとベトナムとの通訳となったNguyễn Ngọc Kim氏(新政府から信頼されBá hộ Kimと呼ばれる)が、1885~1886年頃に父の遺体を埋葬するために3階建ての建物を作りTháp Bá hộ Kimと呼ばれていたものです。(ThápはTowerという意味)。結局埋葬は果たせなかったものの、建物は完成していました。

1885年の地図

1885年5月のハノイ古地図には、既にTour de Ba Kim(Ba Kimタワー)として記載があります。

話がそれましたが、この移設案が通ったため1890年7月14日(フランス革命記念日)に像は設置されました。

PaulBert知事の像から亀の塔の自由の女神を望む

Paul Bertの銅像から亀の塔屋上の自由の女神、そしてその先に1886年に建設された聖ヨセフ大聖堂(ハノイ大教会)が見える当時のイラスト。

ホアンキエム湖と自由の女神

以上から自由の女神像が持つ本来の意味とは関係なく、またこの湖にまつわる伝説とも関係が無い、単に美術的な造形物として設置された経緯が伺えます。

自由の女神3

しかし木に竹を接ぐかのような自由の女神像設置は、さすがにどうなんだと反対が出たため、わずか7年後の1896年に亀の塔屋上からは撤去され、クアナムフラワーガーデン(vườn hoa Cửa Nam)へと移動することになります。

ハノイの自由の意女神フラワーガーデン2

Statue de la Liberté=自由の女神像

この場所ですが

1936年のハノイホアンキエム周辺

上は1936年のハノイ古地図。左上の黒い線が路面電車でその下の赤い点が自由の女神像の位置と考えられます。

現代の公園の位置

上は、現在の地図。左上Vườn hoa Cửa Namという文字の"oa”の付近が自由の女神像があった場所です。

4. ハノイ自由の女神像の運命に影響した日本

移動した自由の女神は、その後50年近くその位置に姿を留めますが、その運命に影響を与えたのは日本でした。

ハノイの自由の意女神フラワーガーデン

以前書いたように1940年の北部仏印進駐及び1941年の南部仏印進駐では、静謐保持という方針の元、親独ヴィシー政権配下にある仏領インドシナの植民地政府を温存させて間接的に支配をしました。(下記以前の記事にも少し書いています)

しかし1944年6月のノルマンディー上陸作戦が成功し、8月25日には親独のヴィシー政権が崩壊、ド・ゴール率いる連合側のフランス共和国臨時政府がフランス本土を抑えるようになると、日本は仏印処理の決断を迫られることになります。

ヴィシー政府

サイゴンのマリア教会に掲げられていた親独ヴィシー政権ペタン元帥の写真

1945年3月9日、日本軍によって明号作戦(仏印武力処理)が行われるとインドシナ植民地政府の支配はいったん終了し、グエン朝最後の皇帝である保大帝(バオ・ダイ)は、3月11日にベトナム帝国の樹立を宣言。名目上はフランスの支配体制から外れたことになります。

そしてハノイ市長となったTrần Văn Laiは、フランス植民地主義に関係する全ての銅像(Paul Bertの銅像や自由の女神像を含む)の撤去を決めます。1945年8月1日の朝に撤去。既に連合軍からポツダム宣言も発表されており、その後の展開も見据えてフランスが戻ってくる前の今のうちに・・・と考えたのかもしれません。

ハノイの自由の女神像の最後

Monument de la Justiceとも呼ばれていた自由の女神像

撤去された像はいったん倉庫へと収納されます。その2週間後に日本は敗戦、ベトナムは再び侵攻してきたフランスからの独立を求める第1次インドシナ戦争(1946~1954年)へと進んでいきます。

5. フランス製(仏製)自由の女神像は、仏像になった

戦争のさなかの1949年、ハノイの北にあるNgu Xi村にあるThan Quang寺院は、阿弥陀仏像の建設プロジェクトを開始しました。仏像には大量の銅が必要で、人々に銅を献納するよう呼び掛けたもののそれでも足りなかった為、政府への援助を要請します。

しかし戦争の最中で銅は潤沢でありません。そこでハノイ市政府はちょうど倉庫に収納されていた自由の女神を含む銅像を提供することを決めます。こうして1887~1952年と65年間存在したハノイの自由の女神像は、溶かされ1952年7月26日に阿弥陀仏像になりました。

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仏像建設中の様子

この時作られた仏像は、今でもハノイで見ることができます。場所は、ホアンキエム湖からちょっと北にあるChùa Ngũ Xã(44 Ngũ Xã, Trúc Bạch, Ba Đình, Hà Nội)という寺院です。

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仏像は、高さ3.95m、両膝で3.60m、周囲11.60m、重さ10トン、台座の蓮は高さ1.45m、円周15m、重さ3.9トンにもなります。

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寺院に実際に行ってみましたが、全く自由の女神の痕跡は存在しませんし写真などの掲載もありませんでした。ひょっとするとベトナムにとっては、自由の女神像の存在自体が黒歴史なのかもしれません。

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普通のベトナムのお寺です。左右にある四角いのは金庫を改造した賽銭箱

さて今年、世界あちこちで過去の歴史に対して論争が起こり、歴史的な銅像が撤去されています。観光地であるホアンキエム湖で亀の塔を見た際は、この寺院へも足を延ばし、歴史から消えた自由の女神像と現在の銅像撤去運動について考えてみるのは、いかがでしたでしょうか?

以上となりますがタイトルの通り"驚きの史実対決"ですので、次回はホーチミン(旧サイゴン)についての驚きの史実です。

6. 以前書いたベトナム歴史秘話が読みたいならこちら

また筆者自身による『3分で解説するベトナムのビジネス状況』を始めましたので、ぜひこちらもご覧ください(よろしければチャンネル登録と高評価をお願いします)

参考資料&画像引用元

ハノイ初の展示会について(ベトナム語)

フランス植民地時代のハノイの人々(ベトナム語)

ハノイの自由の女神(ベトナム語)

銅像の経緯(ベトナム語)

ハノイの自由の女神像(ベトナム語)

La Statue de la Liberté(フランス語)

manhhai(ベトナム語)


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