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【アルギュストスの青い翅】第8話 ヴィクトル、月光下に夢見た邂逅

「祖父がそう教えてくれた時、その瞳は青く燃えていて例えようもなくきらめいていてね……」と老ディカポーネは振り返る。

「それは祖父のとても大切な思い出なのだと感じたよ。もしかしたら自分以外には誰も知らないかもしれない。祖父が孤独だったのは、その時出会ったような人とそのあと、もう一度巡り会えなかったためではないだろうかって、その瞬間私は思った。大きな能力ゆえに、その反動も大きいJはきっと、自分を理解してくれる人を誰よりも必要とするのだろうと、そう思えて仕方がなかった」

 ディカポーネの一族にとってJという存在は永遠だ。誰もが憧れ敬い、ときに畏れ、自分たちの未来を指し示してくれる者として、少しでもそばで感じたいと望む。彼は類稀なる天才で、凡人のように悩むことなどないだろうと、一族の者たちは思っているのだ。

「でも私は違った」と老ディカポーネは目を細めた。

 あの夜を通して、周りの人よりも一歩、祖父に近づくことができたと思った。祖父の輝く瞳の色を見て、打ち寄せる波の音を聞き、隠されたJの悲しみに寄り添うべきだと強く感じた。この先のJがみな、幸せであってくれることを願わずにはいられなかった。

「と同時にね、Jが背負うものの大きさに改めて身震いしたよ。それゆえに我が子にはその名をつけることができなかった。いや、それは本当じゃないな。この名はね、つけようと思ってつけられるものではないんだよ。名と魂が呼びあうのさ。夢を受け継ぐ者を名自らが選ぶのだと思う。生まれ落ちたその瞬間にそれはもう、間違いようもなくJなんだ。抗いようもなくJの名を持つんだよ」

 息を飲むヴィクトルに老ディカポーネは頷いた。

「ようやくそれに気づいた時、私は少しだけまた祖父の気持ちに近づけたと思った。Jという、時代に選ばれし者の意味について知ったと思ったんだ。でもそうじゃなかった。まだまだ届いていなかったんだよ。Jの存在の本当の意味にね」

 そういうと彼はヴィクトルの手を取った。温かく大きな手だった。シワの刻まれた顔に柔らかな微笑みが浮んだ。

「けれど私は君に出会えた。想像もしなかった幸運だ。そして、今度こそ気がついたんだよ。とてもとても大切なことにね。アルギュストスが自由に飛ぶ姿を見ながら君と青い光の中にいる時、悩みを抱える君には申し訳ないけれど、私は今までにないほどの幸せを感じたんだ。すべての憂いから解放されて自由になれるような気がしたよ」

 アルギュストスの青は大切なもの。それなのにいつしか、自分の中で当たり前になっていたのだと打ち明ける老ディカポーネ。けれどヴィクトルの蝶たちが、そしてヴィクトルの美しさが、もう一度彼にあふれるような誇りと喜びを感じさせたのだ。

「それは燃え上がり尽きることのない情熱だよ、どこまでも遠くを見ようとする高い志さ。Jと言う存在はもしかしたら、その青い輝きと同じなのかもしれない。手に持っていたはずのものをすっかり忘れてしまった私たちに、そっと寄り添って思い出させてくれるなにかだ。誰よりも強い力なんかじゃない。誰よりも温かくて大きな心なんだ。類い稀な能力を持つ者が多かったがゆえに一族を背負い導くという宿命に翻弄されるけれど、本当の役目はそこじゃない。Jは誰よりも始まりに近くて、誰よりも純粋なんだ。もう一度まっすぐな心で私たちが目指すべきその先を見せてくれる輝ける存在なんだよ」

 一息にそう言い切った老ディカポーネはまっすぐにヴィクトルを見た。

「だからJはもっと気負いなく自由になっていいんだと私は思っている。自分らしく生きればいいのさ。その存在そのものが私たちの求めるものなのだからね。そうは言っても簡単なことではない。積み重ねられてきた歴史に、私たちは囚われてしまっているからね。だからこそ理解ある人が必要なんだ。Jを受け止め、解放してあげられる誰かだ」

 真摯な瞳を見つめ返したヴィクトルだったけれど、まだその真意を掴み取れずにいた。老ディカポーネは微笑みを深くすると続けた。

「Jは求めるべきなんだ。もっともっと。自己犠牲なんて必要ない。素直に己を解放し心から欲するなにかをがむしゃらに探せばいいんだ。どこまでも自分を愛する一個人であっていいのさ」

 ヴィクトルは、老ディカポーネの切ない告白のような言葉の中に、彼のもどかしさを感じた。

「そのことを、私はいつか生まれるJに知らせたいと思った。けれど息子にもその息子にも、私の時間の中にJの誕生はなかったんだ。仕方がないことだが、それだけが残念でならないよ。こうも老いてしまうと残る時間も限られてくるからね。でも君は私よりもずっと若いからいつかJに出会えるかもしれないね。もし出会ったらよろしく頼むよ。孤独を抱えず、名に惑わされず、己の力を信じて自由に生きろと、伝えてほしいんだ」

 思いもかけなかった老ディカポーネの願いに、ヴィクトルは目を瞬かせた。

「どうして?って顔をしてるね。それはね、これは私から君へのメッセージでもあるからだよ。君たちはね、きっと響き合う。似ているんだよ。君は誰よりもJという存在を理解できるって、なぜか強く感じるんだ。この体に流れる血がそう訴えかけてくるんだよ。だからと言って、君に無理強いする気はない。ただ、覚えておいていてほしい」

 ヴィクトルは苦笑するしかなかった。若くても自分の命はそう長くはないだろう。だから自分がJに出会うことなんてこれっぽちも考えられない、そう思ったからだ。けれど不思議なことに、その一言がヴィクトルの生きる支えになっていく。

 命ある限りJに出会える日を待ちたい引き寄せたいと、気がつけばそう思えるようになっていた。いつの日かいつの日かきっと必ず。それが自分を救ってくれたディカポーネに報いることだ。

 ヴィクトルは密かに誓った。今度は自分がディカポーネを、Jを救おう。王子が自分に教えてくれた心の強さを柔らかさを、同じように孤独にさいなまされるその人に伝えに行くのだ。海辺に佇んでいた人になりたいと、ヴィクトルはアルギュストスの光の中にそう願い続けた。

 満月が近づきアルギュストスの光も強くなる頃、人魚の伝説を思い描きながらヴィクトルはまたJを想った。会いたいと、話したいと、寄り添って笑い合いたいと。
 月光の下、運河に舟を出し、アルギュストスに導かれた出会いを想像する。彼はどんな色の目をしているだろうか。月光のようなこの髪を好きだと言ってくれるだろうか。

 そしてついに見つけたのだ。切ない目をした若きJを。青を愛し、青に苦しみ、それでも青を求め続けるJ。揺れる水が、降り注ぐ月光が、飛び交うアルギュストスが、二人を結びつけた瞬間だった。


第9話に続く https://note.com/ccielblue18/n/nedae497dd835 
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