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【アルギュストスの青い翅】第7話 ヴィクトル、気高き毒との出会い

 ヴィクトルは己の肉体を憎んだ。動かない足、止むことのない痛み。しかし、芳しくない体の成長とは裏腹に美貌は臈長け、みなの憧れである人魚の王子に結びつけられる。それは周りの優しさだ。けれど逆にぎりぎりと彼を苦しめた。
 
「似るなら髪の色じゃなくて強靭な肉体がよかったな。こんな体……。何かの呪い? 僕が何か罪を犯したの? 人魚の尾びれじゃなくて、人間の足が欲しいよ……」

 幼少期の憧れはやがて、思うにいかない体の中でこじれにこじれ、膨らむ痛みによってついに、憎しみへと姿を変える。ヴィクトルは、思いつく限りの罵詈雑言を想像の中の王子に投げつけた。自分を血筋を、嘲笑い蔑んだ。
 けれど……それでも憎みきれなかった。王子はやはり、ヴィクトルにとって「力」であり、生きていく証だった。輝かしい王子の姿は、いつだって風前の灯のようなヴィクトルの命を守り励ましてくれる。それは誇りだ。苦難の旅を乗り越えた人魚の子孫であるという誇り。それだけは、どんな負の力も奪い去ることはできなかった。

 ディカポーネの薬と出合って恐るべき痛みから解放された時、ヴィクトルは悪夢から目覚めたような気分だった。彼は再び、世界に対する興味を、王子への憧れを取り戻した。
 取り憑かれたように伝説を読み返せば、そこには見える力、すなわち強靭な肉体以上のなにかがあることに気づく。何度も何度も気になる言葉を反芻し、やがて根本へと迫った。
 王子が壮大な大冒険をなしえたのは、その精神が驚くほどしなやかだったからだ。それを知った時、なぜ自分がこれほどまでに王子に惹かれたのか、そのわけを理解できたと思った。

「そうか。魂の力だ。ロトのようにまっすぐ天を目指し、けれど柔らかく風に身を任せる……」

 目に見えている形は始まりに過ぎない。求めるものはその先にある。そこに辿るつくために必要なのは自由な心だ。そしてそれは、部屋から出ることのない自分を解き放ってくれる大きな力。ヴィクトルは、がんじがらめだった昨日までの自分から解き放たれるのを感じた。

「僕は人魚の子孫なんだ。アルギュストスという宝をこの地に運んできた一族。だからこれからも、ずっと僕らが守り続けなくては!」

 アルギュストスの紋章をおしいただく家に生まれたことを初めて嬉しく思った。青い蝶の輝く六枚の翅は、王子とヴィクトルの夢の形だ。部屋の壁に掲げられたレリーフ。眠れない夜、月光に浮かび上がるその姿に何度も励まされた。

 そんなヴィクトルが、いよいよアルギュストスの舞う部屋の住人となり、その美しさにさらなる癒しを受けた。一握りの人間にのみ与えられた苦しみと喜び。だからこそ、ディカポーネと心を通い合わすことができたのだ。
 それはディカポーネにとっても大きなことだった。治療する者とされる者という単純な関係ではない、はるかにそれを超え、彼らの心は深いところで結びつき支えあうようになった。

 そしてある夜、ヴィクトルは思いもかけない話を聞くことになった。
 
 ディカポーネのJ。それはヴィクトルもよく知る有名な名前だ。歴史に刻みつけられた偉大なる名前。町中の誰もが知っている名前、いやもしかしたら世界中の誰もが、かもしれない。
 けれど毎日足を運んでくれた老年のディカポーネは言ったのだ。ディカポーネのJはその強さゆえに孤独なのだと。大いなる研究成果を残しながらも、いつも満たされない想いを抱いているようだったと、そう打ち明けた。ヴィクトルの中で、初めて知るJの姿が、どんどん孤独になっていく自分と重なった。

 その頃のヴィクトルは痛みからは解放されたものの、その毒と一体化した状況であり、誰とも接触できなかった。その事実を受けとめるしかなかった時、言葉にできない孤独感が彼を襲った。もう一生、愛する人に触れることができないという恐ろしさ。その衝撃は体を蝕む痛みよりも強烈で壮絶なものだった。
 王子の心にたどり着いて以来、決して泣いたりしないと誓ったヴィクトルだったけれど、その時ばかりは己の存在を世界で一番醜いと、涙ながらに思ってしまった。
 
 それでも、献身的なサポートを続ける両親を前にすれば、微笑むことを選択した。大好きな両親を悲しませたくなかったのだ。けれど微笑めば微笑むほど、その孤独は深まった。心が音を立てて砕けていくような毎日だった。

 祖父がそのJだったと、老ディカポーネは続けた。

「彼はね、家族のために家のためにその人生を捧げたんだ。それでよかったんだといつも自分に言い聞かせるように言っていたよ。幼心にも、Jという規格外の存在の誇りと苦しみが伝わってきた。この人は特別なんだと思い知らされたんだ。誰よりも優れているのに、人一倍努力を続ける。そんな風に必要以上に己に厳しい祖父だったけれど、小さな楽器を大事にしていてね。夜遅く、研究室にとどまって爪弾いていたのを覚えているよ」

 月明かりの部屋で、ヴィクトルは老ディカポーネの話に耳を傾ける。

「ある夜、届けものに行ったら祖父がいつになく朗らかな調子で弾き始めてね。私は驚かされたんだ。いつも遠くを見ているような目に力が宿り、淡い水色の瞳は見たこともないような美しい色合いに染まっていた。研究室に飛び交うアルギュストスがまるで音に寄り添うように飛び交っていて、その輝きが祖父の目の中に映り込んで深くて強い色を生み出していたんだよ。青だ、海の色だと思わず呟いたら祖父が言ったのさ」

かつて美しい人に出会ったことがある。
遠い昔、学生時代のことだ。

海辺の町だった。
研究に行き詰まり、
春先の海に一人でふらりと訪れた。

そして海辺で楽器を爪弾けば、
ふとその音に音が重なった。
振り返ると、浜辺に立つ人がいて、
その手には古楽器があった。

互いに名乗ったわけでも話したわけでもない。
ただ思うように互いが楽器を鳴らせば、
それが面白いように共鳴した。

海辺に響くその音の掛け合いに、
わけもなく救われた。

その人がふと海を指した。
遠い海面にちらちらと青い光があった。

初めて見る光景だった。
月光かと思って空を見上げれば、
月は明後日方向にある。

なにかが海で瞬いている。
それはまるで、
月光のかけらのような青い光だった。

思わずアルギュストスのようだと呟けば、
その人は首をかしげた。

自分の研究している生物だと説明した。
そして自分は同じ名を持つのだと言えば、
静かに頷いた。

促されたわけでもないのに話し続けた。
Jとは「月光を探す者・集める者」という意味。
でも自分は名前負けしている、
まだなにも見つけられていないとこぼした。

その人が微笑みとともに、
目に見える結果だけが答えではないと言った。

あなたを生きることが、
あなたの存在を意味あるものにする。
あんな美しい光と同じ名前、
それは世界に愛されている証拠だと言ってくれた。


第8話に続く https://note.com/ccielblue18/n/nc70f27430a5c 
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第1話はこちら https://note.com/ccielblue18/n/n5d2a69ae0564

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