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【短編】林檎の樹の下で、僕は時の旅人を待つ 4/4

「あなたは優しいわ。見ず知らずの私を救おうとしてくれた。気持ちを尊重してくれた。そして今、わがままを聞いてくれてる」
「それは……」
「簡単にはできないことよ、あなたは優しくて、そして強いわ」

 彼女の慰めに僕の中で何かがプツリと切れた。僕は思わず叫んだ。

「僕は傷ついていますよ! あなたのことを思うと胸が張り裂けそうだ!」
「……」
「今だって……あなたがこの塀を越えてきてくれたらって思ってるんですから! 僕は、僕はあなたを……」

 彼女の眉がぐっと下がった。僕ははっとする。そんな顔をさせたかったわけじゃない。だけど伝えずにはいられなかったのだ。

「ごめんなさい……私はやっぱり自分勝手でダメな人間ね」

 僕は首を振った。追い詰めたのは僕だ。こうでもしなければ彼女の中に自分を残せない、そんな浅ましさからだった。僕の一方的な想い。だけど彼女はそんな僕を許してくれようとした。あまつさえ、自分の失態だと。
 違う、彼女は間違っていない、彼女は正しい。だから僕は言った。だけど、僕は言ったのだ。

「そうですよ、あなたは勝手だ。ちっとも僕の言うことを聞いてくれない。でも……あなたは僕なんかよりずっと優しい。あなたこそ、誰よりも強い人です」

 その言葉にようやく彼女が笑ってくれた。精一杯の告白は届かなかったけれど、仲直りはできたと思った。今はそれで十分だ。切なさがあふれてきてどうしようもなかったけれど、それでもどうにか微笑み返すことができた。
 
 石塀が大きく崩れた場所まで移動し、塀を挟んだまま、僕たちは向き合って林檎のパイ包みを食べた。スプーンが音を立てる硬い生地に彼女が苦笑する。「本当はもっとさっくりして、甘くて濃厚なのよ」と、肩をすくめて付け加えた。
 でも、僕には最高に美味しいものだった。林檎にはよく火が通っていて柔らかく煮崩れ、砂糖なんかなくても十分に甘かった。優しい味だった。たまらなく優しい味。彼女の丁寧な暮らしぶり、僕への気遣いや出来上がりに対する可愛らしい悔しさや、そんなものがぎっしり詰まっているのが伝わってくる。もう二度とこんな素敵な味には出合わないだろう。そう思うと泣きたくなった。胸が詰まって苦しくなり、最後の一口が食べられない。

 その時、世界が前触れもなく揺らいだ。

「え? もうそんな時間なの?」

 彼女の声が微かに震えていた。あまりの急展開に僕は言葉を失う。この瞬間がやってくることはわかっていた。でも、目の前に突きつけられた現実はあまりにも大きかった。
 明日には消えてしまう世界、彼女……。今ここで、僕はなんと言うべきなのか。心の中に僕が持つ言葉という言葉が渦巻いた。どれもがふさわしく、どれもが当てはまらない。けれど迷っている場合ではない。時間がないのだ。僕は考えるのをやめた。心のままに、言葉を吐き出すしかない。

「あなたは……あなたは時の放浪者なんかじゃない。ちゃんといつだって意味はあるんだ! ……二度あることは三度あると言います」

 あれほど悩んでこれとは。なんとも幼稚な自分の物言いに落胆してしまう。けれど彼女は楽しそうに笑った。

「確かにね。人生の中で二度もパラレルワールドの境目さかいめに遭遇するなんて、そうはないわよね。そういう運命を背負っているのかもしれない。いつかまた、どこかで何かに結びつく。でもね……時間も場所も、決まったものは何一つないのよ」
「でもだからと言って、次がないということにはならないでしょ? むしろその逆だ。決まっていないのなら、それはまたここかもしれない!」

 彼女の目が大きく見開かれた。その緑はどんな晴れた日の丘陵地よりも鮮やかできらめきに満ちていると思った。彼女は口を開きかけたけれど、結局何も言わなかった。それでも、僕の最後の言葉に微笑んでくれたから、真心を込めて、僕は伝えた。

「僕は待ってますから。生きてください。生き延びてください。あなたは放浪者なんかじゃない、時の旅人だ。こんな奇跡を与えられるなんて、あなたにしかできないことがあるからでしょ? だからきっと渡っていける。だから……この戦いを乗り切ったら、また僕に会いに来てください」
「……」
「約束してください」
「……守れるかどうかなんてわからないわ」
「それでもいい。言葉は力です。あなたがやりきって納得したら、もう一度僕を思い出して。あなたは一人じゃない。僕にあなたを守らせてください! ……僕ではダメですか?」

 彼女の頬にさっと紅がさした。急に頼りなげな少女のように彼女がはにかんで、おずおずと、小さい声で僕に打ち明ける。

「今度会う時も……やっぱりあなたよりお姉さんかもしれないわ。それとも……」
「なんであったっていい。僕は。あなたなら、それでいいんです。いつまでも待ってますから!」

 僕は手を伸ばし、塀の向こうの色づいた頬にそっと触れた。初めて感じた温もりは、この出会いが紛れもなく本当なのだと教えてくれる。彼女が目を細め、それはそれは嬉しそうに笑った。きっとまた会えるのだと、そう信じさせてくれる笑顔だった。

 翌朝、丘陵地は静けさに満たされていた。人々の営みの音はもう聞こえない。見渡す限り緑の絨毯が広がるばかりだ。僕は青空を見ながらいつものように塀の上に寝転んだ。
 
 けれど心は決まっていた。誰もがかえりみないこの場所で、生活を始める人間がいたっていいんじゃないだろうか。ドームの下から出て、大いなる力の元に作られた天候と付き合いながら暮らしていく。この塀の横に林檎を植えて、彼女が迷わないように立派な樹に育てよう。それは僕らの目印だ。僕がここにいるという証。
 そしてもう一度彼女に会えたなら、バターも砂糖もドライフルーツも、みんなみんなあふれるほどに用意しよう。彼女が望み通りのパイ包みを焼けるように。
 そんな未来を想像したら心がたまらなく温かくなった。彼女の笑顔が重なって揺れる。くすぶっていた切なさの残りが、そこからわき上がった優しさに包まれて、二人で一緒に食べた林檎のように、甘酸っぱく溶けていった。


                                                            (了)

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