【短編】この世界に唯ひとつのもの(下)
姉は柔らかくかぶりを振った。金色の後れ毛が木漏れ日に反射する。お人形などではない、もっともっと美しい。こんなにも豊かな表情で……。けれど姉はそっと目を伏せた。
「いいえ、メグ。そう簡単なことではないの。生きることはジョージには辛いことばかり。だから彼には、永遠のお茶会の中だけでも幸せでいてもらいたいの。そこでは何一つ欠けてはいけないのよ」
「……ジョージさんは今も?」
「でしょうね」
「……死ぬまでずっと?」
「ええ。だって、その時間を何よりも愛しているんですもの」
母親を愛していたからかと私が問えば姉はまた首を横に振った。
「そうじゃないわ。確かにそれも間違いではないけれど……。でも本当の本当はそうじゃない。彼はね、彼が幸せだった日々を愛しているの。喜びを感じていた頃の自分を愛しているのよ。遠い日の自分が何よりも愛おしい。だから、その美しさを壊さないためにも、何一つ間違ってはいけないの」
「……歪んでいるわ」
「ええ、そうね、けれど何よりも純粋で気高いわ」
「……お姉さま……」
姉はバスケットから小さなスミレのブーケを取り出した。顔を寄せてそっと香りを嗅ぐ。よくできた造花だ。香りなどあるわけもない。多くの花が咲くこの季節にそんな布花、と不思議に思っていたけれど、その謎は解けた。どの春も、テーブルのスミレは甘く香っていたことだろう。
「自分がお人形のように、年を取らなければどんなに良いだろうと思ったこともあるわ。そうしたらジョージの時間の中にいられて、永遠に愛してもらえるんですものね。だけどそんなこと、誰にも無理だわ」
私ははっとした。ドレスを作るのが楽しみの姉、毎日のように髪型を変えている姉。けれどこうして湖畔のピクニックに来るときの茶器もクッキーもケーキも茶葉も、ティータオルや読む本まで、何一つ変わることはなかった……。
これはお茶会の再現なのだ。姉がジョージと過ごした日々の。姉もまた、6月の薔薇咲くテーブルに囚われたままなのだと私は知った。
バロックパールは、ジョージから贈られたものに違いない。すべてが過去の中にある彼の、唯一外に向かった気持ちを表すもの。もしかしたら、それをきっかけに違う未来を作れたかもしれなかったもの。けれど姉が決断し、ジョージがそれを受け入れた以上、二人の間に私が立ち入ることなどできるはずがない。
湖畔のピクニックが雨で中止になった日。二人で静かに刺繍をしているとドアチャイムがなった。姉が嬉しそうに立ち上がる。
「できあがったのかも!」
「何が?」
「お人形よ。ジョージと同じ瞳の色のお人形。春に愛されしスミレ色。夏のドレスを作らずに、予算を全部つぎ込んだのよ。さあ、明日は一緒にピクニックに行かないとね」
それはそれは艶やかに姉が笑った。心から嬉しそうだった。その瞬間、私は理解した。姉は彼を、彼の過去を愛したのだ。だからこそ、それを壊してしまう自分が許せなかった。けれどまた、手放すこともやはりできなかったのだ。
6月のお茶会と7月のピクニックはきっと同じ夢。6月が美しすぎて、7月に姿を変えたとしても、それは、自分が美しいと思うものを永遠にそばに置くという、二人が選んだ愛の形なのだ。姉にはスミレとお茶会を、ジョージには薔薇と人形を。
「誰かの愛を歪んだものとして蔑むなんて、つくづく下品な話ね。愛は人に理解されるためにあるんじゃない。それは自分のためにあるのに」
湖を渡る風の中でそう言った姉。あの言葉は、甘い薔薇の香りの中で、姉への想いを綴ったジョージのものだ。私の幻のお茶会は、煙るようなスミレ色に抱かれ、彼の優しい優しい言葉の中で永遠に閉ざされた。
『エレノア、あぁ、エレノア……。僕の綺麗な綺麗なエリー。君の微笑みをずっと夢見るだろう。春の終わりの、香る薔薇のような、君の微笑み。それでいいんだ。それが何よりも美しい。僕にふさわしいもの。ねえ、エリー。僕の愛が、きっと僕らの時間を守っていくよ。だけど忘れないで。僕は……、君の愛が君を輝かせ続けることを、心から祈っているのだからね』
ドアに向かう姉の背を見ながら、気がつけば私も「自分のための愛」と口にしていた。二人はきっと誰よりも何よりも幸せなのだ。あのバロックパールが歪であっても魅力的なように、その愛はあまりにも美しくてあまりにも残酷で、そして何ものにもかえられない、二つとないもの。それこそが彼らにとっての真実の形。そしてそれが奪われることは……永遠にないだろう。
美しいリボンがかけられた箱を嬉しそうに抱きしめる姉は、今まで見たどんな姉よりも眩く美しかった。
いつしか雨は上がり、雲の切れ間から降り注ぐ光が、まるで夏の喜びを謳っているかのようだ。季節を超えていく、二人の終わらないお茶会を想って、私の胸は甘く甘く疼いた。
(了)
*この世界に唯ひとつのもの(上)
*この世界に唯ひとつのもの(中)
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